2013年9月1日日曜日

博多における緊張と弛緩

 1年半年ぶりの博多出張。あまりそんな風には思わないのだけれど「せっかくだから博多ラーメン食べようかなあ」と、僕の摂食中枢が身体に命令を下した。
 ラーメンにそれほどこだわりがないので、その瞬間に目に入った『一蘭 天神西通り店』というお店に入った。それなりの人気店のようだ。お客さんが切れ間なく入店していく。
 お店に入って、まずたじろいだ。カウンターがなんだか選挙の投票所みたいに70センチぐらいごとに仕切られていて、隣のお客さんが何を食べているのかわからないように「工夫」されている。ラーメンを食べるのに集中していただきたい配慮、と張り紙が貼られていた。ラーメンにはどちらかというと集中より解放を求めるタイプの僕は、そこでとても緊張してしまった。
 食券と少しの緊張感を持ったまま個室スペース風カウンターに座る。そこで従業員の人に食券を渡せば事が済むかというとそうではない。同時に「味の濃さ」「麺の硬さ」「にんにくの有無」「ネギの種類」「油分」「辛さ」等々をカウンターに備えてある申告票に記入し提出しなければ、注文が完結したことにはならないのである。

 「お好みをご記入ください」という従業員の態度はあくまでにこやかでフレンドリーではあるが、「申告票にある質問すべてに答えなければ商品は提供いたしかねます」というきっぱり感も同時にただよわせていた。「おまかせします」というあいまいな姿勢は許さぬ雰囲気である。

 緊張はますます増していったが、ほぼすべての項の「普通」を丸で囲んで申告票を提出。無事注文を終えた安どの気分を感じつつ、僕は冷たい水をぐびりと飲んだ。
 この時点で、なんとなく目的を達し、店を後にしても良い気分になっていた。
 数分後、「おまちどうさま!」の元気なかけ声とともにカウンターの前の引き戸のようなところから差し出されたものを目にし、僕の緊張感はピークに達した。
 どんぶりから湯気を立てている豚骨博多ラーメンを想像していたら、なんとそこには黒陶の重箱がどしりと存在感たっぷりに鎮座していた。

 重たい蓋をゴトリとあけると、お重の中には間違いなく博多ラーメンなのではあるけれども、普段の庶民派を代表するような気安い表情ではまるでなく、「きちんと胃袋に収めてくださいよ」と低く囁く黒服といった面持ちの”別の何か”が佇んでいた。
 
 
 「すみません、ラーメンなめてました」という気分になってしまい、ニンニク入れず普通の硬さの麺と普通の濃さと普通の油のスープをいただいて、そそくさと店を出てきたのであった。
 おいしかったと思う、たぶん。





 緊張感を持ったまま、いつもお土産を買う「岩田屋」の地下食料品売り場へ。ここで僕はいつも明太子を買う。先ほどの「黒服ラーメン」のお店と違い、ここはぼんやり冷蔵ケースを眺めていると、必ずお姉さま方が話しかけてきてくれる。

 ラグビーの練習で骨折している僕の指を見て「あらー、どうしたの? わかった、だれかに噛まれたんだ」などと軽口を言ってくれたりして、ラーメン店で緊張していた僕の心は老舗デパートの食料品売り場できっちりと解放されていった。

 ここで販売している、海産物は本当に手頃でおいしいものがそろっているのだ。

 いつもおいしい海産物を教えていただき感謝。
 笑顔がとっても素敵です。また来まーす。

空港の売店では、種子島フェアが開催中。ここでも優しく素敵な姉さま方にいろいろと種子島の名産品を説明していただいた。ここでもまた、とっても美味なアジの開きと、やりイカを入手。とても心地よい気持ちで、帰途の人となったのであります。

「私たち種子島ではなくて博多の人間なの」いやいや、全然問題なしです。

2013年8月31日土曜日

介護福祉士の専門性 感情労働としての介護

  8月29日、30日と福岡で開催された「介護福祉教育学会」に参加してきた。  介護福祉士を養成する教育施設の教員たちが集う学会。

 
今回、主に討議されていたテーマが「介護福祉士の専門性」。国家資格として制定され、25年も経過したこの資格だが、 その専門性の定義を議論しなければならないという状況の介護福祉士、なかなか複雑な資格だ。

 この議論の根底には、看護師との関係性というものが存在する、様に感じた。最近の制度改正で、それまでは禁忌だった医療的行為のごく一部(痰の吸引等)が、介護福祉士にも認められるようになり、それがこの問題を浮き立たせている。 つまり「私たちは、看護師の補佐役ではない」という意識が、一部作業領域が広がることによってあらためて芽生え、そのことが自分たちの専門性とはいったい何なのであるか、という疑問につながってきたように思えるのだ。

 僕が参加した分科会で一人の発言者が、「介護は看護から生まれた領域ではない。むしろ、全人間的な視点を持つ介護から、看護が派生的に生まれたのだ」と声高に述べていた。「なんだかフェミニズム論みたいだな」と思った。

 看護師やコ・メディカルと言われる人たちが、自らの専門領域について議論することはあっても、その専門性とは何か(アイデンティティといってよいかもしれない)、について論じあうことはないだろう。 それは、その領域が科学的な根拠によってきちんと定義されているからである。

 専門性イコール科学的な裏付け、と捉えた時、介護福祉士の専門性はとても脆弱なものになる。どうしてだろう。  

 医療的ジャンルと明確に異なる点は、介護ははっきりと「感情労働」といえるからではないだろうか。「感情労働としての介護」という視点でその科学性を考えていくと、見えてくるものがあるかもしれない。

  心理学とは別のアプローチで「感情の科学」を論じていけば、介護の専門性が見えてくるのではないか。  

 介護版「感情の科学」の研究がこの問題を解決する近道かもしれない。

   「感情労働としての介護」について考えてみよう、と思った二日間だった。  

2013年8月16日金曜日

働くということ

 姪っ子が、職場を訪ねてきた。夏休みの宿題で、身近な人から仕事に関するインタビューをするというもの。
 「この職業を選んだ理由は?」「一日の時間の流れは?」「この職業をするにあたって必要な資格は」「仕事をして喜びを感じる時は?」「辛いと思うのはどんな時?」等など、次々と質問をされる。
 伯父さん、いいかっこうしなければ、高校生に夢を与えなければ…などと思いつつ、一言ひとこと言葉を選びながら、答えていった。久々に、シンプルに自分を振り返る、いい機会にもなった。
 そして、最後の質問…。ドキッとした。「あなたにとって"働く"ってどういうことですか」
 それまで、流ちょうに答えていたつもりなのだけれど、一瞬言葉に詰まってしまった。

 働くってどういうことだろう。

 とりあえず「働くって、自分は社会の中で生きているのだ、一人きりでは生きられないのだ、ということを確認する作業かな」と答えた。
 「たとえば、作家の人が一人で原稿を書き終えたとしても、それだけでは働いたことにならない、それを出版社の担当者に渡して、印刷屋さんが印刷して、また点検して、活字になって製本されて、それを本屋さんが読者へつないでくれる。そういった仕組みの中で行動するということが働くということなんじゃないかな」
「農業で言えば、自給自足で自分が食べる分だけの作物を作っていたら、それは労働とは言えないよね、その作物を食べてくれる人に渡して、その対価を得て初めて働いたということになると思うんだよね」などと答えた。

 姪っ子は僕の一言一言に対して、しっかりうなづきながらメモを取っていた。

 答えながら、働くってそういうことか、と自問自答していた。お前はいつもそんなことを意識して仕事をしているかと心の中でつぶやいた。

 30年以上勤め人をしていて「働くということの意味」について初めてきちんと考えてみようと思った、貴重なひと時だった。