2013年8月31日土曜日

介護福祉士の専門性 感情労働としての介護

  8月29日、30日と福岡で開催された「介護福祉教育学会」に参加してきた。  介護福祉士を養成する教育施設の教員たちが集う学会。

 
今回、主に討議されていたテーマが「介護福祉士の専門性」。国家資格として制定され、25年も経過したこの資格だが、 その専門性の定義を議論しなければならないという状況の介護福祉士、なかなか複雑な資格だ。

 この議論の根底には、看護師との関係性というものが存在する、様に感じた。最近の制度改正で、それまでは禁忌だった医療的行為のごく一部(痰の吸引等)が、介護福祉士にも認められるようになり、それがこの問題を浮き立たせている。 つまり「私たちは、看護師の補佐役ではない」という意識が、一部作業領域が広がることによってあらためて芽生え、そのことが自分たちの専門性とはいったい何なのであるか、という疑問につながってきたように思えるのだ。

 僕が参加した分科会で一人の発言者が、「介護は看護から生まれた領域ではない。むしろ、全人間的な視点を持つ介護から、看護が派生的に生まれたのだ」と声高に述べていた。「なんだかフェミニズム論みたいだな」と思った。

 看護師やコ・メディカルと言われる人たちが、自らの専門領域について議論することはあっても、その専門性とは何か(アイデンティティといってよいかもしれない)、について論じあうことはないだろう。 それは、その領域が科学的な根拠によってきちんと定義されているからである。

 専門性イコール科学的な裏付け、と捉えた時、介護福祉士の専門性はとても脆弱なものになる。どうしてだろう。  

 医療的ジャンルと明確に異なる点は、介護ははっきりと「感情労働」といえるからではないだろうか。「感情労働としての介護」という視点でその科学性を考えていくと、見えてくるものがあるかもしれない。

  心理学とは別のアプローチで「感情の科学」を論じていけば、介護の専門性が見えてくるのではないか。  

 介護版「感情の科学」の研究がこの問題を解決する近道かもしれない。

   「感情労働としての介護」について考えてみよう、と思った二日間だった。  

2013年8月16日金曜日

働くということ

 姪っ子が、職場を訪ねてきた。夏休みの宿題で、身近な人から仕事に関するインタビューをするというもの。
 「この職業を選んだ理由は?」「一日の時間の流れは?」「この職業をするにあたって必要な資格は」「仕事をして喜びを感じる時は?」「辛いと思うのはどんな時?」等など、次々と質問をされる。
 伯父さん、いいかっこうしなければ、高校生に夢を与えなければ…などと思いつつ、一言ひとこと言葉を選びながら、答えていった。久々に、シンプルに自分を振り返る、いい機会にもなった。
 そして、最後の質問…。ドキッとした。「あなたにとって"働く"ってどういうことですか」
 それまで、流ちょうに答えていたつもりなのだけれど、一瞬言葉に詰まってしまった。

 働くってどういうことだろう。

 とりあえず「働くって、自分は社会の中で生きているのだ、一人きりでは生きられないのだ、ということを確認する作業かな」と答えた。
 「たとえば、作家の人が一人で原稿を書き終えたとしても、それだけでは働いたことにならない、それを出版社の担当者に渡して、印刷屋さんが印刷して、また点検して、活字になって製本されて、それを本屋さんが読者へつないでくれる。そういった仕組みの中で行動するということが働くということなんじゃないかな」
「農業で言えば、自給自足で自分が食べる分だけの作物を作っていたら、それは労働とは言えないよね、その作物を食べてくれる人に渡して、その対価を得て初めて働いたということになると思うんだよね」などと答えた。

 姪っ子は僕の一言一言に対して、しっかりうなづきながらメモを取っていた。

 答えながら、働くってそういうことか、と自問自答していた。お前はいつもそんなことを意識して仕事をしているかと心の中でつぶやいた。

 30年以上勤め人をしていて「働くということの意味」について初めてきちんと考えてみようと思った、貴重なひと時だった。