2011年3月27日日曜日

そのとき

 その日の朝日新聞・天声人語では、ニュージーランドの震災で留学中の富山外国語専門学校の生徒28人のうち7人の尊い命が失われたことを伝えていた。

14時46分。

3月11日、僕はオフィス近くのビルの4階にある貸し会議室にいた。17時まで行われる会議だったが、僕は午前中だけ参加の予定だった。会議の流れで、午後3時まで出席しようと予定を変更した。

 そろそろ会議を抜けるころだ、と思った矢先の午後2時46分。会議室の床が大きくスライドし始めた。

 地震だ! と思いつつも縦揺れではないから大したことない、と一瞬思った。しかし、横揺れの幅が初めて体験する凄まじいものだった。

 ミシミシと建物のあちこちから、「破壊」を想像させる音が聞こえ始めた。会議に出席している人間は、12~3人。長机を両手で押さえる者、机の下に隠れる者、呆然とする者、窓から外を眺める者、、、その窓ガラスにピシッピシッと音をたててヒビが入った。

 1分以上経った、まだ揺れは続いている、エネルギーを増しながら。

 生まれて初めて経験する種類の恐怖。会議室の壁の一部がひび割れ、コンクリートの破片が床に落ちてくる。ビルが倒壊するかもしれない、と思った。

 そのとき、ふいに自宅の本棚がバタバタと倒れる映像が頭に浮かんだ。液晶テレビもバタンと音を立てて倒れ、画面が割れる。購入したばかりなのに。妻はパニックになっているに違いない。急激にに自宅が心配になった。妻がいるはずの自宅に電話を入れた。まだ揺れは続いている。電話は通じたが、誰も出ない。
 妻のケイタイにも電話したが、話中の状態。地震発生から3分ほど経過しただろうか、揺れはようやく収まった。

 会議の参加者も、我に返り自宅に電話したり、ワンセグでテレビを見たりし始めた。震源地は宮城県沖! と誰かがさけんでいる。震度7強!! どんな状態なのか。

 社内の会議であったので、それぞれが所属する部署に電話で状況確認を始めだした。当然会議はこの時点で終了ということになった。

 外に出た。あちらこちらのビルから人が出ていて車道も通行人でいっぱいになっていた。

 多くの若者がケイタイで動画を取っている。いや若者だけではない、おじさんも。ケイタイを向けている方向を見ると、新宿の高層ホテルがゆらゆらと揺れていた。1~2分おきに余震が来る。アスファルトの地面も揺れる。一瞬自分も動画を撮ろうかな、という思いが頭を掠めるが、こんなことでバッテリーを消費してる場合じゃないと自省する。

 事務所の入っているビルの前に、僕の部署のスタッフが集まっていた。会社からの指示で、とりあえず事務所の近くの広域避難所に指定されている明治神宮に皆で向かうことになった。

閉鎖された代々木駅前の道路
15時30分ごろ。
 明治神宮に向かう。近隣のサラリーマンや観光客と思われる外国人と一緒になる。道すがら家と妻のケイタイに電話するが全くつながらなくなってしまった。
 明治神宮・北参道に行くと、多くの企業の人間が避難してきていた。大手企業の従業員が多い。どこで大手企業と判断したかというとヘルメットをかぶっているかそうでないか。ヘルメット組は大手に違いない。ここまで来る途中、ビルの上から看板や、ガラスの破片や、窓そのものが落ちてくるのではないか、と、そんな恐怖を感じた。ヘルメットがとてもうらやましかった。

 妻への電話やメールはまるで通じなかったが、息子の通う中学から緊急メールが入った。息子は地震発生の時間、部活のラグビーをやっていたはずだ。
「生徒全員の安全が確認されました。バス・自転車・徒歩通学の者のみ帰宅させることにします。その他の生徒は交通機関が復旧しだい帰宅させます」とのことだった。ウチの息子は電車通学組みなので学校にとりあえず残ることになるだろう。学校からの緊急メールだけはこの後も定期的にきちんと届いた。何か別ルートでもあるのか。妻との連絡はまだ取れていない。ツイッターは、リアルタイムで機能している。妻もアカウント持っていればダイレクトメールが使えたのに、と思ったが夫婦でフォローしあうのも、なんだかなー、とも思った。

 明治神宮に避難した多くの者は宝物殿前の芝生広場に誘導されたらしいが、少し出遅れた僕は本殿のほうに向かってしまった。本殿には避難者と思える人は一人もいなかった。




 外国人も含めた観光客が数人いるだけ。何事もなかったように婚礼の儀式がおこなわれていた。その風景を見た僕は、なぜか「ああ、これはあまりたいしたことはなかったのだなあ」とそんなふうに思った。

16時ごろ。

 明治神宮から事務所に戻る。妻とは何とかメールで連絡が取れた。家にいると思った妻は、仕事の関係で国立近辺にいることがわかった。電車は動きそうもないので、とりあえずタクシーで帰ろうと思う、という。

 事務所に帰る途中の鉄橋で、電車から降り線路を歩く人々を見る。「怖いだろうなあ」と思う。数台の消防車・パトカーが出動、警察官が駅前の道路を封鎖していていた。ガス漏れが発生、危険だからこの道を歩かないでくれ、大きく迂回してくれとのことだった。ここもダメだろうな、と思いつつ裏の路地に入っていったらそこは通行OKだった。

 事務所に戻る。交通機関はほぼ全面ストップ、回復の見込みはなし。会社から、とにかく帰宅できる者は会社を出るように、との指示、幸い僕の部署のスタッフは、都内に住む者が多く、皆徒歩で帰るか、あるいは同僚の家に泊まることになった。外出中の人間の無事も確認された。

渋谷駅前

17時00分。
 何度かの余震を感じながらも、しばらくデスクにいた。窓ガラスがカタカタなるのが怖い。スタッフ全員が帰宅したことを確認した。帰宅できない者は、本社に集合するようにとの連絡があったが、自分は歩いて帰るか本社に留まるか、妻と相談し決めようと思っていた。が、まるでケイタイはつながらなかった。

 そのころには、関東の交通機関は今日は完全にアウトであることが決定的であることが分かった。17時40分、JR代々木駅のシャッターがカタカタと下ろされた。
 覚悟を決めた。歩いて帰ろう。とりあえず、家の中がどうなっているのかを確認したかった。会社から自宅へのルートは何度か車で走っているのでおおよそ頭の中に入っている。代々木の会社から川崎・元住吉の家まで、18キロから20キロくらい、3~4時間で帰れるだろう。

18時00分。

 代々木駅を出発。タクシー乗り場は人だかりになっていた。下ろされたシャッターの前に、私立小学校の2年生くらいの女の子がしゃがみこんでいた。家に帰ったものの、家人が不在だったのかもしれない。
 明治通りの歩道は、人であふれかえっていた。一部車道にはみ出してしまっている。早足で歩き、18時30分に渋谷駅を通過した。山手線なら5分のところだ。

 渋谷駅は、バス停もタクシー乗り場も人でごった返している。明治通りの歩道は、ますます人であふれている。ラッシュ時の電車内と同じような状況。

 並木橋を右に折れ、代官山方面へ向かう。小川軒を越える。バターサンド、と思う。ずいぶん様子が変わったなあ、美味そうな店が多いなあ、と思いながら代官山付近を歩く。
 なつかしい、ラ・ボエムがある!何度この店で夜更かししただろう。昔と変わらぬたたずまいがうれしい。ブンシュンのアズマさんによくおごってもらったなあ。午前様になって、この店のチーズケーキを嫁さんに買って帰ったなあ、などと考える。メールで妻はまだ、タクシー乗り場に並んでいると連絡してくる。タクシーは30分に1台くらいの割合でしかやってこないと言う。

 代官山駅を左に見て、山手通り越えて、中目黒駅を右に見つつ駒沢通りに入る。

目黒区総合庁舎前

19時00分。 
  代々木を出てちょうど1時間、中目黒駅を過ぎ、目黒区合同庁舎のあたりで、妻から連絡あり。息子は学校に泊まることになったと言う。学校の公衆電話から本人が連絡してきたという。いくぶん浮き浮きした声だったようだ。ひとまず安心。


碑文谷
19時35分。

 集団で帰る人が多く、何やらなごみ話しながら歩いている人が多い。こちらは一人、人波をかき分けかなりの速足で歩き続けた。少しひざに痛みを感じる。
 祐天寺を過ぎたあたりで、駒沢通りを左に折れる。ちょっと複雑な道に入るが、これが近道。油面小学校、中町あたりをくねくねと行き中央町、鷹番方面に向かって目黒通りに抜けるのだ。過去にタクシーの運転手に教えてもらった。
 駒沢通りを離れると、あんなに多くの徒歩帰宅者がいたのに、突然僕だけになる。とぼとぼと住宅街、商店街を抜けていく。おしゃれな店をいくつか見つける。カップルが楽しそうに食事をしている。やっぱりそれほど大事じゃないのかな、とまた思う。

 目黒通りに出る。ほっとする。ここまできたら俺のシマ、となぜか思う。とりあえず予想通りの時間に家に帰れそうだ。

 目黒通りでまた多くの徒歩帰宅者たちと合流。やっぱり心強い。碑文谷のダイエーに入る。食料品売り場で何か買おうとしたが特に喉も渇くこともなく、何も買わず。店にはほとんど客はいなかった。店の前のベンチで5分ほど休憩する。左膝をさする。


自由通りを越え八雲三丁目の交差点を左折、目黒通りを離れ自由が丘へ向かう。

 
自由が丘駅
20時05分。

 自由ヶ丘駅到着。交番横の公衆トイレに入る。自由が丘は息子とよく遊びに来た街。まだ小さかった息子と何度かこのトイレに入ったなあ、などと回顧。交番の並びに東急プラザがある。
 ゆっくりメールでも打とう、とエントランスに入ると数十人の行列ができている。なんと、公衆電話にならぶ行列だった。主婦が多い。買い物帰りなのだろう。ケイタイはほとんどつながらない状態が続いているが、公衆電話は大丈夫と道行く人たちが話していたのを思い出す。

 交番で、武蔵小杉方面にはどう行けばよいのですか、と聞いている女の子がいる。僕と同じ方向だ。警官が「うーん、中原街道に出るのが良いかな」と言っている。いや、それは遠回り、このまま自由通りと並行に環八に向かったほうがちょっと早い、でもその先は慣れていないと迷ってしまうかもしれないから、と黙って通り過ぎた。

 環八に向かいゆるい坂道を登っていく。田園調布本町、「PATE屋」の看板が見えてきた。林のりこさん(建築家・磯崎新氏の元奥様、エッセイスト)のお店。パテってこんなに美味しいんだ、と教えてくれた店。清水ミチ子が働いていた店としても知られている。20数年前、ピアニストの鈴木恭代さん(ご主人は建築家・鈴木恂氏)に紹介してもらった。その向かいには、今年で100歳、日野原重明先生邸。打ち合わせで何度かお邪魔したことがある。日野原先生、まるで動じてないだろうな、と想像する。坂道で左ひざの痛みはちょっと増してきたけれど、なんだか少し元気になる。

 環八を越え、田園調布。駅のほうへは向かわず、多摩川台公園方面へ進む。蕎麦屋・兵隊家は営業している。お客さんもそこそこ入っているようだ。兵隊家を左に見ながら宝来公園の脇を通り多摩川駅方面へ坂を下る。歩いている人間は僕だけだが、ここは玉堤通りへの抜け道、普段はほとんど自動車など通らないのだが、今はものすごい数のタクシーが渋滞している。歩きながらタクシーを追い越していく。何気なく、料金表示を覗き込む。どのクルマも4000円~7000位を示している。俄然元気が出てきて、ずんずんタクシーを追い抜く。

多摩川駅
20時35分。

 田園調布を抜け、東横線多摩川駅到着。駅構内で妻にメール、ようやくタクシーに乗れたところだと返信あり。2時間待ったとのこと。同じ方面の人4人での乗り合いだという。国立からクルマ、いったい何時間かかるのだろう。確実に僕のほうが先に帰宅できるだろう。

 丸子橋に出る。中原街道から横浜方面に帰る人々と合流、仲間意識が芽生える。また元気が出る。橋の半ばあたりで皆が海側を眺めている。はるか彼方でものすごい勢いで炎が上がっているのが見える。「お台場のほうじゃないか」と言っている人がいる。急に恐怖心が芽生える。やはり、大変なことが起きているのだ。暗闇に炎がはっきりと見える。音はしない。後から知ったことだが、千葉市原市のガスタンクの火災だった。

 川崎は全域停電だよ、と会社の人間に聞いていたのだが、橋を渡って川崎側に着いても電気は点いている。コンビニも普通にあいている。歩き出してから3時間近く経つが、不思議に喉も渇かず腹も減らない。興奮しているからか。

 綱島街道を僕の最寄り駅、元住吉に向かって歩いていく。高層マンションが立ち並ぶ武蔵小杉に近づく。唖然とする。高層マンションの電気がすべて消えている。真っ黒な摩天楼。やっぱり川崎は停電している。ところどころ電気が灯っているビルもある。ウチのほうも停電でなければ良いのだけれど、祈るようにつぶやく。

 関東労災病院を抜ける。昨年父が入院していた病院だ。電気は灯っている。医療施設なので自家発電なのだろう。

 
元住吉駅からブレーメン通りを臨む
21時10分。

 元住吉駅に着く。駅は真っ暗だ。商店街も真っ暗。ゴーストタウンのようになっている。普段はにぎやかな商店街、テレビでも時々タレントがぶらりと歩いたりして紹介される、そんな商店街の街灯という街灯が一切灯っていない。こんな風景は見たことない。森の中の一本道のようだ。

 駅前の銀行にかすかな明かり、その中で、数人の人が椅子に座り話をしているのがちらりと見えた。とにかく家までの10分足らずの道を歩いていった。時々懐中電灯を持つ人とすれ違う。
 コンビニももちろん真っ暗だ。やはり、大変なことが起きている、と再度納得した。

 21時18分、代々木を歩き出してから3時間と少し、我がマンションにたどり着く。真っ暗闇の中、オートロックの入り口はどうなっているのか心配だったが、開け放たれていた。管理人や警備会社の人は見当たらない。後から、非常時のセキュリティはかなり低いマンションと思ったが、しょうがないか。

 恐る恐る、鍵を回しドアを開ける。倒れた書棚、食器棚、テレビ、壁から落ちた絵画、散乱した書籍、粉々に割れた食器、、、頭の中でシミュレーションする。真っ暗な玄関、シューズボックスの上においてあった懐中電灯を手に室内を点検する。

 幸いなことに室内はほとんど変化がなかった。本棚も食器棚も金魚鉢もテレビもすべて無事、朝出かけたときと全く同じ状態であった。

 ロウソクをともして、ソファに深く座り込む。まだ左足がかすかに痛む。
 ガスは無事、やかんで湯を沸かし買い置きのカップ麵をすすって落ち着く。ろうそくの明かりの中でラジオを聴きながら、妻の帰りを待つ。

 午後10時30分ごろ、電気が回復。一晩は少なくとも電気なしだと思っていたので、なんとなく拍子抜けする。


23時15分。
 テレビをつける。午後11時を回ったところで妻が帰宅。日常が戻ってきたような気がした。
 震災の恐ろしさを実感するのは翌朝以降のことだった。

2 件のコメント:

solar08 さんのコメント...

あの日の東京の様子、初めて想像できました。物語を読むようにエキサイティングでしたよ(などと喜んでは不謹慎ですが)。東京に住む息子も姪も何事もなかったような反応だったので。その後の惨劇が怖いですね。「原発脱却からの脱却からのそのまた脱却」を即座に決めたドイツについて、今原稿を書いているところです。

池田正孝 さんのコメント...

ありがとうございます。原稿楽しみです。事故が起きても、最初の一歩の原発脱却で右往左往しているこの国について、どう思われますか。