2011年3月27日日曜日

そのとき

 その日の朝日新聞・天声人語では、ニュージーランドの震災で留学中の富山外国語専門学校の生徒28人のうち7人の尊い命が失われたことを伝えていた。

14時46分。

3月11日、僕はオフィス近くのビルの4階にある貸し会議室にいた。17時まで行われる会議だったが、僕は午前中だけ参加の予定だった。会議の流れで、午後3時まで出席しようと予定を変更した。

 そろそろ会議を抜けるころだ、と思った矢先の午後2時46分。会議室の床が大きくスライドし始めた。

 地震だ! と思いつつも縦揺れではないから大したことない、と一瞬思った。しかし、横揺れの幅が初めて体験する凄まじいものだった。

 ミシミシと建物のあちこちから、「破壊」を想像させる音が聞こえ始めた。会議に出席している人間は、12~3人。長机を両手で押さえる者、机の下に隠れる者、呆然とする者、窓から外を眺める者、、、その窓ガラスにピシッピシッと音をたててヒビが入った。

 1分以上経った、まだ揺れは続いている、エネルギーを増しながら。

 生まれて初めて経験する種類の恐怖。会議室の壁の一部がひび割れ、コンクリートの破片が床に落ちてくる。ビルが倒壊するかもしれない、と思った。

 そのとき、ふいに自宅の本棚がバタバタと倒れる映像が頭に浮かんだ。液晶テレビもバタンと音を立てて倒れ、画面が割れる。購入したばかりなのに。妻はパニックになっているに違いない。急激にに自宅が心配になった。妻がいるはずの自宅に電話を入れた。まだ揺れは続いている。電話は通じたが、誰も出ない。
 妻のケイタイにも電話したが、話中の状態。地震発生から3分ほど経過しただろうか、揺れはようやく収まった。

 会議の参加者も、我に返り自宅に電話したり、ワンセグでテレビを見たりし始めた。震源地は宮城県沖! と誰かがさけんでいる。震度7強!! どんな状態なのか。

 社内の会議であったので、それぞれが所属する部署に電話で状況確認を始めだした。当然会議はこの時点で終了ということになった。

 外に出た。あちらこちらのビルから人が出ていて車道も通行人でいっぱいになっていた。

 多くの若者がケイタイで動画を取っている。いや若者だけではない、おじさんも。ケイタイを向けている方向を見ると、新宿の高層ホテルがゆらゆらと揺れていた。1~2分おきに余震が来る。アスファルトの地面も揺れる。一瞬自分も動画を撮ろうかな、という思いが頭を掠めるが、こんなことでバッテリーを消費してる場合じゃないと自省する。

 事務所の入っているビルの前に、僕の部署のスタッフが集まっていた。会社からの指示で、とりあえず事務所の近くの広域避難所に指定されている明治神宮に皆で向かうことになった。

閉鎖された代々木駅前の道路
15時30分ごろ。
 明治神宮に向かう。近隣のサラリーマンや観光客と思われる外国人と一緒になる。道すがら家と妻のケイタイに電話するが全くつながらなくなってしまった。
 明治神宮・北参道に行くと、多くの企業の人間が避難してきていた。大手企業の従業員が多い。どこで大手企業と判断したかというとヘルメットをかぶっているかそうでないか。ヘルメット組は大手に違いない。ここまで来る途中、ビルの上から看板や、ガラスの破片や、窓そのものが落ちてくるのではないか、と、そんな恐怖を感じた。ヘルメットがとてもうらやましかった。

 妻への電話やメールはまるで通じなかったが、息子の通う中学から緊急メールが入った。息子は地震発生の時間、部活のラグビーをやっていたはずだ。
「生徒全員の安全が確認されました。バス・自転車・徒歩通学の者のみ帰宅させることにします。その他の生徒は交通機関が復旧しだい帰宅させます」とのことだった。ウチの息子は電車通学組みなので学校にとりあえず残ることになるだろう。学校からの緊急メールだけはこの後も定期的にきちんと届いた。何か別ルートでもあるのか。妻との連絡はまだ取れていない。ツイッターは、リアルタイムで機能している。妻もアカウント持っていればダイレクトメールが使えたのに、と思ったが夫婦でフォローしあうのも、なんだかなー、とも思った。

 明治神宮に避難した多くの者は宝物殿前の芝生広場に誘導されたらしいが、少し出遅れた僕は本殿のほうに向かってしまった。本殿には避難者と思える人は一人もいなかった。




 外国人も含めた観光客が数人いるだけ。何事もなかったように婚礼の儀式がおこなわれていた。その風景を見た僕は、なぜか「ああ、これはあまりたいしたことはなかったのだなあ」とそんなふうに思った。

16時ごろ。

 明治神宮から事務所に戻る。妻とは何とかメールで連絡が取れた。家にいると思った妻は、仕事の関係で国立近辺にいることがわかった。電車は動きそうもないので、とりあえずタクシーで帰ろうと思う、という。

 事務所に帰る途中の鉄橋で、電車から降り線路を歩く人々を見る。「怖いだろうなあ」と思う。数台の消防車・パトカーが出動、警察官が駅前の道路を封鎖していていた。ガス漏れが発生、危険だからこの道を歩かないでくれ、大きく迂回してくれとのことだった。ここもダメだろうな、と思いつつ裏の路地に入っていったらそこは通行OKだった。

 事務所に戻る。交通機関はほぼ全面ストップ、回復の見込みはなし。会社から、とにかく帰宅できる者は会社を出るように、との指示、幸い僕の部署のスタッフは、都内に住む者が多く、皆徒歩で帰るか、あるいは同僚の家に泊まることになった。外出中の人間の無事も確認された。

渋谷駅前

17時00分。
 何度かの余震を感じながらも、しばらくデスクにいた。窓ガラスがカタカタなるのが怖い。スタッフ全員が帰宅したことを確認した。帰宅できない者は、本社に集合するようにとの連絡があったが、自分は歩いて帰るか本社に留まるか、妻と相談し決めようと思っていた。が、まるでケイタイはつながらなかった。

 そのころには、関東の交通機関は今日は完全にアウトであることが決定的であることが分かった。17時40分、JR代々木駅のシャッターがカタカタと下ろされた。
 覚悟を決めた。歩いて帰ろう。とりあえず、家の中がどうなっているのかを確認したかった。会社から自宅へのルートは何度か車で走っているのでおおよそ頭の中に入っている。代々木の会社から川崎・元住吉の家まで、18キロから20キロくらい、3~4時間で帰れるだろう。

18時00分。

 代々木駅を出発。タクシー乗り場は人だかりになっていた。下ろされたシャッターの前に、私立小学校の2年生くらいの女の子がしゃがみこんでいた。家に帰ったものの、家人が不在だったのかもしれない。
 明治通りの歩道は、人であふれかえっていた。一部車道にはみ出してしまっている。早足で歩き、18時30分に渋谷駅を通過した。山手線なら5分のところだ。

 渋谷駅は、バス停もタクシー乗り場も人でごった返している。明治通りの歩道は、ますます人であふれている。ラッシュ時の電車内と同じような状況。

 並木橋を右に折れ、代官山方面へ向かう。小川軒を越える。バターサンド、と思う。ずいぶん様子が変わったなあ、美味そうな店が多いなあ、と思いながら代官山付近を歩く。
 なつかしい、ラ・ボエムがある!何度この店で夜更かししただろう。昔と変わらぬたたずまいがうれしい。ブンシュンのアズマさんによくおごってもらったなあ。午前様になって、この店のチーズケーキを嫁さんに買って帰ったなあ、などと考える。メールで妻はまだ、タクシー乗り場に並んでいると連絡してくる。タクシーは30分に1台くらいの割合でしかやってこないと言う。

 代官山駅を左に見て、山手通り越えて、中目黒駅を右に見つつ駒沢通りに入る。

目黒区総合庁舎前

19時00分。 
  代々木を出てちょうど1時間、中目黒駅を過ぎ、目黒区合同庁舎のあたりで、妻から連絡あり。息子は学校に泊まることになったと言う。学校の公衆電話から本人が連絡してきたという。いくぶん浮き浮きした声だったようだ。ひとまず安心。


碑文谷
19時35分。

 集団で帰る人が多く、何やらなごみ話しながら歩いている人が多い。こちらは一人、人波をかき分けかなりの速足で歩き続けた。少しひざに痛みを感じる。
 祐天寺を過ぎたあたりで、駒沢通りを左に折れる。ちょっと複雑な道に入るが、これが近道。油面小学校、中町あたりをくねくねと行き中央町、鷹番方面に向かって目黒通りに抜けるのだ。過去にタクシーの運転手に教えてもらった。
 駒沢通りを離れると、あんなに多くの徒歩帰宅者がいたのに、突然僕だけになる。とぼとぼと住宅街、商店街を抜けていく。おしゃれな店をいくつか見つける。カップルが楽しそうに食事をしている。やっぱりそれほど大事じゃないのかな、とまた思う。

 目黒通りに出る。ほっとする。ここまできたら俺のシマ、となぜか思う。とりあえず予想通りの時間に家に帰れそうだ。

 目黒通りでまた多くの徒歩帰宅者たちと合流。やっぱり心強い。碑文谷のダイエーに入る。食料品売り場で何か買おうとしたが特に喉も渇くこともなく、何も買わず。店にはほとんど客はいなかった。店の前のベンチで5分ほど休憩する。左膝をさする。


自由通りを越え八雲三丁目の交差点を左折、目黒通りを離れ自由が丘へ向かう。

 
自由が丘駅
20時05分。

 自由ヶ丘駅到着。交番横の公衆トイレに入る。自由が丘は息子とよく遊びに来た街。まだ小さかった息子と何度かこのトイレに入ったなあ、などと回顧。交番の並びに東急プラザがある。
 ゆっくりメールでも打とう、とエントランスに入ると数十人の行列ができている。なんと、公衆電話にならぶ行列だった。主婦が多い。買い物帰りなのだろう。ケイタイはほとんどつながらない状態が続いているが、公衆電話は大丈夫と道行く人たちが話していたのを思い出す。

 交番で、武蔵小杉方面にはどう行けばよいのですか、と聞いている女の子がいる。僕と同じ方向だ。警官が「うーん、中原街道に出るのが良いかな」と言っている。いや、それは遠回り、このまま自由通りと並行に環八に向かったほうがちょっと早い、でもその先は慣れていないと迷ってしまうかもしれないから、と黙って通り過ぎた。

 環八に向かいゆるい坂道を登っていく。田園調布本町、「PATE屋」の看板が見えてきた。林のりこさん(建築家・磯崎新氏の元奥様、エッセイスト)のお店。パテってこんなに美味しいんだ、と教えてくれた店。清水ミチ子が働いていた店としても知られている。20数年前、ピアニストの鈴木恭代さん(ご主人は建築家・鈴木恂氏)に紹介してもらった。その向かいには、今年で100歳、日野原重明先生邸。打ち合わせで何度かお邪魔したことがある。日野原先生、まるで動じてないだろうな、と想像する。坂道で左ひざの痛みはちょっと増してきたけれど、なんだか少し元気になる。

 環八を越え、田園調布。駅のほうへは向かわず、多摩川台公園方面へ進む。蕎麦屋・兵隊家は営業している。お客さんもそこそこ入っているようだ。兵隊家を左に見ながら宝来公園の脇を通り多摩川駅方面へ坂を下る。歩いている人間は僕だけだが、ここは玉堤通りへの抜け道、普段はほとんど自動車など通らないのだが、今はものすごい数のタクシーが渋滞している。歩きながらタクシーを追い越していく。何気なく、料金表示を覗き込む。どのクルマも4000円~7000位を示している。俄然元気が出てきて、ずんずんタクシーを追い抜く。

多摩川駅
20時35分。

 田園調布を抜け、東横線多摩川駅到着。駅構内で妻にメール、ようやくタクシーに乗れたところだと返信あり。2時間待ったとのこと。同じ方面の人4人での乗り合いだという。国立からクルマ、いったい何時間かかるのだろう。確実に僕のほうが先に帰宅できるだろう。

 丸子橋に出る。中原街道から横浜方面に帰る人々と合流、仲間意識が芽生える。また元気が出る。橋の半ばあたりで皆が海側を眺めている。はるか彼方でものすごい勢いで炎が上がっているのが見える。「お台場のほうじゃないか」と言っている人がいる。急に恐怖心が芽生える。やはり、大変なことが起きているのだ。暗闇に炎がはっきりと見える。音はしない。後から知ったことだが、千葉市原市のガスタンクの火災だった。

 川崎は全域停電だよ、と会社の人間に聞いていたのだが、橋を渡って川崎側に着いても電気は点いている。コンビニも普通にあいている。歩き出してから3時間近く経つが、不思議に喉も渇かず腹も減らない。興奮しているからか。

 綱島街道を僕の最寄り駅、元住吉に向かって歩いていく。高層マンションが立ち並ぶ武蔵小杉に近づく。唖然とする。高層マンションの電気がすべて消えている。真っ黒な摩天楼。やっぱり川崎は停電している。ところどころ電気が灯っているビルもある。ウチのほうも停電でなければ良いのだけれど、祈るようにつぶやく。

 関東労災病院を抜ける。昨年父が入院していた病院だ。電気は灯っている。医療施設なので自家発電なのだろう。

 
元住吉駅からブレーメン通りを臨む
21時10分。

 元住吉駅に着く。駅は真っ暗だ。商店街も真っ暗。ゴーストタウンのようになっている。普段はにぎやかな商店街、テレビでも時々タレントがぶらりと歩いたりして紹介される、そんな商店街の街灯という街灯が一切灯っていない。こんな風景は見たことない。森の中の一本道のようだ。

 駅前の銀行にかすかな明かり、その中で、数人の人が椅子に座り話をしているのがちらりと見えた。とにかく家までの10分足らずの道を歩いていった。時々懐中電灯を持つ人とすれ違う。
 コンビニももちろん真っ暗だ。やはり、大変なことが起きている、と再度納得した。

 21時18分、代々木を歩き出してから3時間と少し、我がマンションにたどり着く。真っ暗闇の中、オートロックの入り口はどうなっているのか心配だったが、開け放たれていた。管理人や警備会社の人は見当たらない。後から、非常時のセキュリティはかなり低いマンションと思ったが、しょうがないか。

 恐る恐る、鍵を回しドアを開ける。倒れた書棚、食器棚、テレビ、壁から落ちた絵画、散乱した書籍、粉々に割れた食器、、、頭の中でシミュレーションする。真っ暗な玄関、シューズボックスの上においてあった懐中電灯を手に室内を点検する。

 幸いなことに室内はほとんど変化がなかった。本棚も食器棚も金魚鉢もテレビもすべて無事、朝出かけたときと全く同じ状態であった。

 ロウソクをともして、ソファに深く座り込む。まだ左足がかすかに痛む。
 ガスは無事、やかんで湯を沸かし買い置きのカップ麵をすすって落ち着く。ろうそくの明かりの中でラジオを聴きながら、妻の帰りを待つ。

 午後10時30分ごろ、電気が回復。一晩は少なくとも電気なしだと思っていたので、なんとなく拍子抜けする。


23時15分。
 テレビをつける。午後11時を回ったところで妻が帰宅。日常が戻ってきたような気がした。
 震災の恐ろしさを実感するのは翌朝以降のことだった。

2011年3月8日火曜日

経堂に名店あり


  経堂の駅前、商店街から少しはずれ、路地を入ったところに居酒屋「いちふく」がある。
昨年の四月、大事な人の不幸があり、この街を訪れることになったのだけれど、なにげなく入ったこの店が、大当たりだった。
 とにかく何をたのんでも美味い、そして、安い。
駅前の路地にひっそりとたたずむ
 集まってくるのは、ほぼ9割が常連さんだが、正しい居酒屋には正しい酒飲みが集まる。
 とても落ち込んでいたときだったのだが、いちげん客を排除するような雰囲気は全くなく、初めてなのにカウンターの先客の方と「あ、どうも、どうも」という感じで会釈。かといって、店主とも、連れ以外の客とも、無駄な会話をせず一人で、夫婦で、あるいは、仕事仲間と酒と肴を楽しんでいる。
 とても居心地の良い居酒屋。

常連さん・みんな笑顔

 その次に訪れたのも、偶然ではあるが、絵本作家・さわだとしきさんの葬儀がこの街であり、その帰りに寄った。しみじみと静かに酒を飲める店でもあるのだ。
この日は装丁家の代田奨さんとの打ち合わせで。僕以上のこの店のファン、遠く本郷の事務所からやってくるほど

ふきのとうの天ぷら なんと380円
もともと「あさひや」という居酒屋の名店があった場所に、居ぬきで開店したとのこと。「あさひや」は写真家の浅井慎平さんが常連だったと聞く。店内の写真も作品として残されているとのこと。その写真は「いいちこ」の広告に使用されたらしい。今は全く別の店ではあるが、”名居酒屋”の空気は十分残っている気がする。
レバー苦手な僕も、唯一この店のレバ刺しは食べられるのだ(運が良いとメニューに加えられる)
 この日も、ほどよく仕事の話をして、ほどよく飲んで、ほどよくこれからのことを語り合って、ほどよく昔話もして、気持ちよく店を出た。
 代田さんがあまり肴に手を伸ばさないので、料理は僕がほとんど平らげてしまった。この店の〆の定番「焼きそば」は、お土産にしてもらう。
 家に帰ってから妻と食す。妻もその美味しさにびっくり。
 帰り際に、サービスで出していただいた蕗味噌がとても美味しかったので「これで御飯食べたら美味しいだろうなあ」などと口走ったら、「これ持って帰って」と手作りの蕗味噌を1ビンいただいてしまった。ちょっとずうずうしかったかなあ。
 その蕗味噌で、焼きそばだけでなく御飯もちょっとだけ食べた。太るわけだ。

僕が東京の居酒屋で一番美味しいと思っている「やきそば」、帰宅してからチンして食べてもひたすら美味かった。


2011年3月4日金曜日

博多新駅で、なぜ2番じゃいけないのか理解する

 3月3日ひな祭り。ぼんぼりに灯りをつけず、早朝、出張のため僕は福岡に飛んだ。

 操縦室からの「えー、機長でございます。今日は素晴らしい天候で、あー、窓からは富士山がとてもきれいに見えます。日本アルプスの雪をいただいた山々も素晴らしい景色です。短い旅ではございますが、えー、皆様、機内で、くつろぎのひと時をおすごしください。」というアナウンスをこの日は、窓側の席でない僕はもどかしくそれを聴いたのであった(しつこいが僕は飛行機の窓からの光景が大好きなのだ)。
しかたなく座席の前のモニターから日本アルプスの雪景色を眺める

 そして、福岡空港から地下鉄で博多駅、午前10時少し前には到着。そこには僕のまるで知らない街が存在していた。

 JR博多シティ 左側がアミュプラザ、右側が阪急百貨店

3月12日の博多=鹿児島間、九州新幹線・完全開通を1週間あまり後に控え、長期間続いていた博多駅の改修工事が終了。ぴかぴかの姿を現していた。

 駅ビルには阪急百貨店とAMUプラザという二つの巨大おしゃれショッピング施設が併設されており、印象としては札幌駅に近い、というか名古屋駅や京都駅などこの10年前後にリニュアルされた、大都市のこじゃれた駅のコンセプトとほぼ同じように感じた。

 オープン初日なので当然と言えば当然であるが、平日の午前中というのに駅前は人人人であふれていた。博多と言えば天神、なのであるが今日はさすがに「天神はガランとしちょったけんねえ、、、」みたいな会話がそこここで聞かれた。


 駅ビルへの入場はそれぞれの商業施設の2箇所に規制、阪急百貨店側からの入店は30分以上かかり、
アミュプラザは4~5分程度だった。実はビルの中は連絡されていた

 屋上も面白いよ、と聞きつけ、昼飯どきに行ってみた。そこには、何が奉ってあるかわからないが「鉄道神社」なるものが存在し、参拝客でごった返していた。みなさん、小さな祠の前の賽銭箱に小銭を投げ入れ、さすが山笠博多っ子、きちんと二礼二拍手一礼している。ちょっとシュールな光景ではあった。何の神様ですかと問えば一様に、よくわからんと笑顔で首をひねる。
鉄道神社を参拝する人々

 屋上広場には、さらにミニSLが走り、ドッグランのスペースもある。土・日には子どもと犬たちがあちこちを駆けずり回り、すごいことになるだろう。

 また、屋上は展望台の役割も果たしており、多くの人が博多の街をバックに記念写真を撮っていた。あいにくこの日は天気が悪く視界不良だったが、晴れた日はきれいに博多湾が一望できるという。屋上の柵ごしに見る博多の街の迫力は、曇り空とはいえそれなりのものがあった。

 柵から、少し離れたところに、4~50センチくらいの高さの狭い舞台のようなものがあり、そこが博多駅屋上の頂上というか、標高最高地点となる。

 50センチ高くなったとしても周りの景色に変わりがあるものではないが、屋上に来た人はみんなその頂上を目指していた。 独りよがりに長居することもなく、きちんと順番を守りその最高標高地を楽しんでいた。

 人間の欲望、いや向上心とはなんとキリがないのだろう、人は1ミリでも上を目指す、やっぱりナンバー2で終わってはいけない、せっかくならナンバー1に登り詰めたくなるのだなあ、などと斜にかまえていた僕も、我慢できず列に並んでその舞台の上に登っちゃった。

 やっぱり見える景色に変わりがなかったが、なんとなく心の奥深くに抱え持つ征服感なるものが満たされ、天下をとったような気分になってしまったのであった。
頂点をきわめた人々 自然と未来に想いを馳せる表情になる
高所恐怖症の僕もここなら大丈夫
 


ひねくれゆうちゃんの赤いかさ(5)


 「うれしいな、すてきだな」

 真っ赤な布地のはしっこにかわいいピーマンとニンジンの絵がこうごに描かれた赤いかさはゆうちゃんが想像していたとおりのものでした。

 おばあちゃんから電話があった、きっかり1週間後におばあちゃんはゆうちゃんのおうちを1年ぶりに訪ねてきました。

 「ねえ、お母さん。このかさ、さして歩いてもいいでしょう」

 ゆうちゃんは“いっしょうのおねがい”という顔をして、おかあさんにそううったえます。

 「そうね、せっかくのおばあちゃんらゆうちゃんへのプレゼントだものね」

 おばあちゃんも、

「きちんとおちついてさすのよ」

と言ってくれました。

 「やったー。お母さんもおばあちゃんも大好きっ」

 ゆうちゃんは、お家の中をかさをさして、台所も居間もぐるぐると行進してまわりました。

「おうちの中ではいいと言ってませんよ」

 お母さんとおばあちゃんは同時にゆうちゃんにそういいました。

 ゆうちゃんはかたをすくめて舌を出しました。

 ゆうちゃんはその日、おばあちゃんからもらったたいせつなかさをきちんとまくらもとにおいて、いっしょにねむりました。                                      (つづく)

2011年3月2日水曜日

焼酎とストローと、超能力

 作家・松兼功さんと約2年ぶりにお食事。松兼さんは、脳性マヒによる重度の障害を持つ。

 作家としてのデビュー作は「お酒はストローで ラブレターは鼻で」(朝日新聞社)。生まれながらの自身の障害と向き合い、様々なバリアと格闘しつつも、青春を謳歌する生活ぶりを描いた好著。刊行とともに大きな話題を呼びテレビドラマ化もされた。

 松兼さんとは長いお付き合い、かれこれ15年以上になるか。葉祥明さんとの詩画集「やさしさの引力」、エッジが利いた日比野克彦さん装丁デザインの「ショウガイノチカラ」の2冊を担当した。

 二人であちらこちらを旅して回り、酒場で杯を酌み交わした。その、松兼さんとパートナーのれなさんと、新宿御苑の居酒屋「炉庵」で再会。

松兼功・れなさん

 ふきのとうの天ぷら、美味しかったあ

「炉庵」は、「発達障害当事者研究」「つながりの作法」の作者・綾屋紗月さん、熊谷晋一郎さんご推薦の店。(熊谷さんは、松兼さんと同じ障害を持つ。昨年「リハビリの夜」で新潮ドキュメント賞受賞)

 「炉庵」は、料理が美味しくて、そしてお店全体のバリアフリー環境が整っている。だから、身体的障害を持たない人間も本当に落ち着ける空間になっているのだ。(障害者用トイレに入ると広々と気持ちいい、と感じるあれに近いと僕は思う)

 そんな空間での3時間あまり、楽しかった。新企画も何本か産声をあげそうな気配。

 ちょっと印象に残った話一つ。

 手が不自由なため、ストローで酒を飲む松兼さん。「ストローで飲むと酔いがはやくなるってホントですか」と言う質問をたびたびされるという。当然「僕はストローでしか酒を飲んだことがないから、比較できません」と答える。

 この夜もそんな話題になった。僕も、おふざけでビールをストローで飲んだことがある。確かにグラスから飲むより、味は苦く感じ、酔いも早く回りそうに思う。で、この夜は初めて芋焼酎の水割りを松兼さんのストローを奪い、チューっと吸ってみた。あれ、直接グラスに口をつけチビリとやるより美味しく感じる。

 「ビールと違って焼酎は、なんだかストローで飲んだほうがすっきり感じる!」と僕は感歎の声を挙げた。

 そしたら、松兼さん、大きく体をゆすりながら満面に笑みを浮かべ、「そうでしょ、そうでしょ、焼酎の場合はそうなんですよ」と言う。

 僕は、思った。
「あれ、このオトコ、違いがわかっているじゃないか、ありえないのに。超能力者に違いない、ちょっと焼酎呑みすぎの」
松兼さんからかすめとった、愛用のストロー2本

2011年2月27日日曜日

雲の上で想ったこと

 2月24日、25日と広島へ出張。

東京方面から、広島というと飛行機か新幹線か迷うところであるけれど、昼まで東京で仕事をし、16時前には広島入りして打ち合わせという予定だったので、必然的に空路ということになる。よほどの飛行機嫌いでないかぎりこの選択が正しい。

 それに、僕は高いところはからきしダメだけれど(観覧車にも乗れない、たぶんスカイツリーも一生展望台には近寄らないだろう)、飛行機は全然だいじょうぶ、というか窓から外を眺めるのがことのほか好きなのだ(揺れたりするとすぐに家族への遺書を書こうと思ってしまう臆病者だけど)。 

 運よく窓側の席が取れた。シートベル着用のサインが消えた頃から、ボーっと窓の外を眺めていた。あきない。雲の上の風景っていつでも人の心を平穏にやさしくする。地上が厚い雲に覆われているときや、雨降りでないと雲の上の風景は見られない。快晴ではいけない。皮肉といえば皮肉。だからよけい得した気分になるのか。

東京から広島へ

ふいに、昨年12月初旬に他界した父を思い出した。半年間入院の末、元気な状態で自宅のベッドに戻ることがかなわなかった。その父が、よく「飛行機に乗って、どこでもいいから旅をしたいなあ」と言っていたことを。

父も、この景色が見たかったのだろう。やさしい気持ちになりたかったのだろう。

父はまだこの雲の上にはいないはずだ。今日も曇り空の下、世話になった人たちの様子を伺いに、あちこちぶらぶらしているに違いない。
広島から東京へ
 
母は、12年前に亡くなった。母と父がこの天上にいるのだ、と思えるようになったとき、機内から見る雲の上のこの光景もまた違ったものに思えてくるのだろうか。

2011年2月23日水曜日

「すぐに忘れられちゃうんですよねえ」

 「すぐに忘れられちゃうんですよねえ」とその彼女が言った。
 職場における仕事の話だ。彼女は、僕より多分20歳以上年下の同業者。僕と同世代の上司に対する、まあよくある愚痴。
 いろいろと報告をして”考えておこう”と返事をもらっても、一向に指示が出てこない、ということらしい。
 僕は、「そうだねえ、色々な仕事抱えているだろうからねえ。俺も、なんでも忘れちゃう。だから、なるべく覚えているうちに、すぐに動くようにしているのだけれど。放っておくと、自分たちの時間の流れだと、すぐに1ヵ月2ヵ月たっちゃうからね」とこたえた。
 異論はあった。-そんなの昔からいっしょ。だから、何度もしつこくこたえを求め続ける。そして、ダメとはっきりいわれなければ、もう動いてしまう。そうしてはじめて、上司は本気になるのだから・・・-たぶん、一言では、上手く伝わらないと思ったので「まあ、自分のことも含めてとにかくすぐに動くしかないね」とだけ言った。
 「忘れられちゃう」ほうが仕事はしやすいときもあるんだよ。
 とにかく、フットワークだ。そして「打つべし、打つべし、打つべし」と帰りの電車の中で彼女に言いたくてもなぜか言えなかったことを心の中で反芻していたら、なぜか僕自身、元気が出てきた。うん、明日のために!
 ああ、これも、忘れちゃうかなあ。


ひねくれゆうちゃんの赤いかさ 4

 「おみやげといえばね、ゆうちゃんに会いたくなったのは、そのおみやげのせいなんだよ」とおばあちゃん。
 「え。なになに?」
 ゆうちゃんはドキドキして、おもわず電話に思いっきりくちびるをくっつけてさけんでしまいました。
 「ゆうちゃん、そんなに大きな声をだしたらみみがこわれてしまうよ。あのね、とってもいいものをデパートで見つけたんだよ。それを見つけたら、つい買ってしまってねえ。ゆうちゃんがとてもよろこびそうなものだったから」
 「ねぇ、ねぇ、ねぇ、おばあちゃん。なーに、それ、はやく言ってよ」
 ゆうちゃんのくちびるはますます電話にくっついていきます。
 「あのね、とってもかわいい赤いかさなんだよ。ピーマンとニンジンの絵がかいてあるの。おばあちゃんはそれをゆうちゃんにプレゼントしたくてね」
 おばあちゃんは、ゆうちゃんが電話に口をくっつけて大声を出すのをけいかいして、受話器からみみをとおざけて話しました。
 ぎゃくに、ゆうちゃんはうれしさのあまり、何もしゃべることができなくなってしまいました。
 「ねえ、ゆうちゃん。きこえてる?どうしたの?」
 おばあちゃんは、心配になってたずねました。
 「バンザーイ!!!」
 ゆうちゃんはありったけの大声を出してさけびました。
 おかげでおばあちゃんの右耳は、そのつぎの日までよく聞こえないほどでした。
                                  (つづく )

2011年2月20日日曜日

佐野眞一さんの言葉と「団塊世代」の可能性

朝日新聞読書欄・佐野眞一氏の『本を開けば』が面白い。今朝は森達也さんの『A3』を紹介していた。
「ノンフィクションを一言で定義すれば、つい本当だと思ってしまう、テレビやインターネットで日々押し寄せてくる情報について、事実を丹念に掘り起こし、実は何も知らなかったことを読者に気づかせる文芸」という。けだし正論。
「森達也は、あなたは本当にオウムを知っているのですか、もっとあからさまに言えば、死刑判決が出た麻原を”吊るして”終わりにしてしまって本当にいいんですか、と執拗にと問いかけている」と。
「麻原がメロン好きだいうことまで報じたメディアが、今ではオウムに対し完全に口を閉ざしているのはおかしくないか」と批判。
そして、「オウムに対して騒ぐだけ騒いで、深刻に考えざるを得ない局面になるとスルーする。連合赤軍に関し見てみぬふりをしてきた同世代の私にはこうした社会風土を作ることに加担したのではないか、という思いがある。傷口を開けられるようで、読むのが辛かった」と語る。
団塊の世代がもう一度社会のムーヴメントをつくりうるとすれば、こういう反省から立った発想を持つことではないか、とその世代をちょっぴり批判してしまうことがある僕が、まじめに考えた。
 加藤仁さんに吹っかけたら、どういっただろう。ああ、酒飲みながら語り合いたい。



ひねくれゆうちゃんの赤いかさ 3

 そんなゆうちゃんに、6月のある日、とびきりのニュースがとびこんできました。
 プルルルル・・・・・・・・プルルルル・・・・・・・・
 ゆうちゃんが一人おるすばんをしていると、いきなり電話がなりだしました。電話はいつでも、とつぜんにかかってくるものなのですが、ゆうちゃんはいっしゅん、どきんとして受話器に手をかけました。
「もしもし、おばあちゃんだよ」
 山形のおばあちゃんからの電話でした。
「なぁんだ、おばあちゃんか」
 ゆうちゃんは、ほっとしてそう言いました。
「おばあちゃんか、だなんて、ゆうちゃんおばあちゃんからの電話でがっかりかい?」
「ううん、だぁいすきだよ。ねぇねぇ、おばあちゃん、元気?」
 ゆうちゃんは山形のおばあちゃんのことが本当に大好きなのです。
 とってもやさしくて、いつも東京のゆうちゃんの家にくるときには、とびっきりのプレゼントを持ってきてくれます。
「おばあちゃんは元気、元気。そろそろ、ゆうちゃんのお顔が見たくなってね。東京に行こうと思ってるの」
 おばあちゃんは、いつものやさしい声でそういいました。
ゆうちゃんは受話器のすぐ向こう側におばあちゃんのにこにことした笑顔が見えるような気がしました。
「わぁーい。ゆうこ、うれしいなあ。ねえねえ、おばあちゃん。この前もってきてくれたサクランボ、とてもおいしかったよ」
「なんだか、おみやげのさいそくをされているみたいだねえ」
おばあちゃんは、きげんのよいときの声で話します。   (つづく)

2011年2月19日土曜日

加藤登紀子さんとエディット=ピアフな夜

 自由ヶ丘に夫婦で買い物に出かけ、「ケチャップ」というお店で昼食。僕はパスタと妻がピザ。パスタは生めん。生めんのパスタと言えば、昔よく食べた代々木の「孔雀の舌」が美味しかったなあ。二日酔いの日に食べる、独特のカルボナーラの味はいまだに僕の味覚中枢に貼りついている。今は人形町に店が移転したらしい。

 ピザは3種類のチーズがのったシンプルなもの。ブルーチーズがポイント、美味しかった。

  モッツァレラとブロッコリーの生パスタトマトソース           3種チーズのピッツァ

夜は、六本木「スイートベイジル」で加藤登紀子さんのライブ。バックにジャズピアニストの島健という豪華な組み合わせ。二組のご夫婦と会場で待ち合わせ。 僕だけは一人。

 普段の登紀子さんのコンサートとちょっと味付けが違う、シャンソンを中心にそのときに登紀子さんが「歌いたいものをきっぱり歌う」ライブ。今夜は、彼女が愛するエディット=ピアフの物語が中心に添えられていた。 

 エディット=ピアフの作品「愛の讃歌」「バラ色の人生」、そして、登紀子さんがピアフに捧げたオリジナル「名前も知らないあの人へ」「ペール・ラシェーズ」。

 「名前も知らないあの人へ」はピアフが18歳のときに亡くした娘のことを思う夜のことを歌った。「ペール・ラシェーズ」はピアフと2歳で死んでしまった娘のマルセルが眠っているパリ郊外の墓地、パリ・コミューンに蜂起した市民兵士たちが多く殺された場所でもある。

 素晴らしい4曲だった。人生を感じた。生きる力を感じた。命を感じた。鳥肌がたちどおし、圧倒された2時間だった。

 よし、ピザとか食ってるだけでなく、今度は妻と一緒にコンサートへ行こう、と一瞬思う。

2011年2月15日火曜日

ウソつかない道具はなーに

 大宮駅のすぐそば、「弁慶」という路地を少し入った縄のれんの店にS君とふらりと入る。気風のよさそうなマスターとマスターのお母さんと思われる二人が店内を切り盛りしていた。

 そして、カウンターの奥には、二人の子どもが寄り添って仲良く遊んでいる。マスターの娘と息子らしい.
小学校2年生のお姉ちゃんと4歳の弟だという。二人ともとても人懐っこくて可愛い。都会の店ではちょっと珍しい光景。

 なんか、離島の居酒屋に行ったような気分になった。沖縄の小さな焼き鳥屋さんなどには、店の中で小さな子どもが普通に遊んでいることが多い。家族で訪れたりすると、子ども同士すぐに仲良くなり、親たちだけで食事ができてしまう。

 「弁慶」のふたりの子どもも同じ、お父さんとおばあちゃんに注意されながらも、じょじょに二人は我々の方にちょっかいを出しに来る。



 お姉ちゃんが、僕たちにクイズを出してくれるという。弟くんはその答えを言いたくてしょうがなく、お姉ちゃんに許しを乞うている。お姉ちゃんは、こっちのおじさん(S君)には言ってもいいけど、あっちのおじさんは絶対ダメ、などといっている。差別だ。弟くんは、僕のほうをいたずらな目で見ながら、嬉しそうにS君に耳打ちをしている。

 「わかったら手を上げて答えてください!」とお姉ちゃん。
 「ハーイ」僕。

 クイズの内容。
 1減っても減ってもなくならないもの、なーんだ。
 2固くて食べられない果物、なーんだ。
 3母には会えないけどママには2回会える、なーんだ。
 4ウソをつかないお母さんがよく使う道具、なーんだ。
 5すぐ怒る虫、なーんだ。

 2以外、正解した。
 皆様も一緒にお考えください。
 (答えは明日以降)

 7時ごろ仕事帰りと思しき、やさしそうなお母さんが店に迎えに来て、二人はとても幸せそうな表情で僕らとハイタッチをして帰っていった。



 僕らには誰も迎えは来なかったけれど、とてもあたたかな気持ちになって僕らも店を出て大宮駅に向かった。

2011年2月14日月曜日

キックキックトントン

 たしか天気予報にはなかったはず。午後6時ごろから東京地方もしずかにふっていた雨がひらりひらりと雪に変わり、7時からはバサバサとしっかり積もりまっせという迫力のある降雪となった。


 「猫のひたい」の我が家のベランダもこんな感じ     駐車場もすっかり雪国

 僕は戌年なので、雪が降ってくると心がときめく。今夜のような、予期せぬ雪は尻尾があったらちぎれるくらい振ってしまうだろう。
 雪はいい。普段でこぼこした場所をきちんと平らにしてくれる。気持ちいい。大好きな、宮沢賢治の『雪渡り」の一説。


 「・・・・・四郎とかん子とは小さな雪沓をはいてキツクキツクキツク、野原に出ました。」
 「こんな面白い日が、またとあるでせうか。いつもは歩けない黍の畑の中でも、すすきで一杯だった野原の上でも、すきな方へどこ迄も行けるのです。平らなことはまるで一枚の板の上のやうです。そしてそれがたくさんの小さな小さな鏡のやうにきらきらいきらきら光るのです。」
 森に入っていった四郎とかん子は。白狐に出会い仲良くなり一緒に踊りだします。
 「キツク、キツク、トントン。キツク、キツク、トントン。」     
  この賢治の擬音、たまらない。
  どんな町中にいても、雪が一面を白く覆いつくすとホント、狐が出てもおかしくないような気がするのだ。
 けれど今日は、電車を降りたら狐ではなく、尊敬する映画作家・想田和弘監督の『選挙』に登場する山さん見たいな人に出会ってこれはこれでシュール。新風に吹かれて風邪ひくなよ。


ネズミ男の後ろ姿みたいではある。




ひねくれゆうちゃんの赤いかさ 2 

 ゆうちゃんの夢は、まっ赤なかさをさして、雨のまちを歩くこと。それをくるくる回しながら、水たまりのなかでも元気よく、スキップをして歩くのです。

 ようち園の道のりだって、どんなに楽しくなることでしょう。

 でもお母さんは、ゆうちゃんが小学校に入学するまではがまんしなさいと言いいます。

 歩くさきがよく見えなくなってしまうし、かさのふちが目に入ってしまうかもしれない。

 レインコートさえあれば、ぜんぜんだいじょうぶ。だから、小学校に入ったらかさをかってくれると言うのです。

 ゆうちゃんが小学校一年生になるまで、あと一年かかります。これから夏が来てプールや海に行って、秋になっておイモほりをして、冬になって雪がふったら、雪だるまをつくって・・・・・・。

 それでもまだまだ一年はたちません。なんて気の遠くなるような長い時間なのでしょう。

 だからゆうちゃんは、雨ふりの朝はきまって、

「ねえ、お母さん。今日はかさをさして出かけていいでしょう。ねえってば」

 とねだります。

 けれどもお母さんは、いつでも

「ゆうちゃんにかさはまだ早いわね。なれていないととてもあぶないんだから。それに風がふいてきたら、ゆうちゃんなんて、かさといっしょにふきとばされてしまうかもしれないんだから」

ときっぱり言うのです。

 そしておまけに、

「あんまりわがまま言うと、今日のカレーはにんじんぬきよ」

なんてつけくわえるのです。

 ゆうちゃんは、かさのさしかたなら、もう頭の中でなんどでもれんしゅうしているので、目の前が見えなくなるようなことなんてない、 というじしんがたっぷりあります。それに、万が一風にふきとばされたって、それはそれですてきじゃないですか。

 かさといっしょに空をとんでいくなんて、メアリーポピンズみたいで、ワクワクします。

 だから、ますますかさをさして歩きたいという気持ちが強くなってくるのです。

 でも、にんじんぬきのカレーはこまります。

 ゆうちゃんはしかたなく、レインコートをきて雨の町にでかけます。

 「ちぇっ、おかあさんのわからずや」

 ゆうちゃんは口をとがらせながら、レインコートのフードをまぶかにかぶって、雨のまちを歩くのです。

                                                      (つづく)

2011年2月13日日曜日

ブログ復活(しようかな)

このところ、ツイッターの140字の世界に引き込まれてしまってブログを更新してこなかった。やっぱり140字はさえずりで、ちょっとつぶやきたいことがあるときはブログもいいかな、ということでブログを復活(しようかな)。ブログ用に書きためたものがあるので、遡ってアップするかもしれません。

 などと思いつつ机を整理していたら、まだ息子が生まれる前に書いた子ども向けの創作話の原稿が出てきた。




 未だ見ぬ「自分の子どもに読んでもらおうと、書いたのだが、なぜか女の子向け。僕には、女の子がいないし、息子も中学2年になろうとしており、ラグビー部で鍛えられつつあり首は太く胸板も厚くなり始め、ちょっと恐怖を感じるときもある。読んでもらう機会を逸してしまった。恥ずかしながら、とここで少しずつ発表(不連続連載)。



ひねくれゆうちゃんの赤いかさ 1

 ひねくれゆうちゃんは、、本当はゆうこという名前なのですが、なぜそうよばれているかというと、まだ5さいのくせにピーマンとニンジンが大好きだからです。 

 ね、とってもひねくれでしょ。  

 ゆうちゃんは雨ふりも大好きです。 雨ふりがつづくとようちえんのお友だちはみんな、

 「雨ふりはいやねぇ」      

 とまるでお母さんのような顔をして言います。

 でもゆうちゃんは

「そんなことないよ。雨ふりって楽しいよ。雨つぶがほっぺたにぽつんとあたると気持ちいいよ。」

といいかえすのです。

 お友だちはまたまたいいかえします。

「雨ふりだとさ、うんどう会や遠足がちゅうしになるじゃん。やっぱりやだよ」

 けれどゆうちゃんも、またまたまたいいかえします。

 「雨ふりだって運動会はできるよ。地面がつるつるして、いつもよりおもしろくなるかもしれないよ」

 もし、園長先生も雨ふりが好きだったら、うんどう会や遠足はちゅうしにならないはずです。中止になるのは雨のせいではなく、それをきらいな園長先生のせいなのです。

 ・・・・・・・・雨ふりをワルモノにしたらかわいそう。

 ひねくれゆうちゃんはいつもそう思うのです。              (つづく)