2019年4月30日火曜日

平成最後の日

今日は、平成最後の日だ。
30年ちょっと前、昭和最後の日、僕は何をしていたのか。
日記は残っていないけれど、ほぼほぼ覚えている。

 昭和最後の日は、昭和天皇が崩御した日。
だから、当然今日の平成最後の日と随分と雰囲気は違った。

 1989年1月7日のその日は土曜日だった。
朝6時33分、昭和天皇、崩御。

 世間は、昭和天皇の容体が重篤なものに陥った1988年秋から、とにかく「自粛ムード」であふれていた。テレビもお笑いもお色気もご法度な状況だった。
 わかりやすく言うと(一部の人にとってのことだが)、僕のお気に入り「週刊文春」の連載『淑女の雑誌から』もいつのまにか誌面から姿を消していた。

 テレビ自体が喪服を着て放送が流れてくるような雰囲気の中、午後のニュースで明日から平成になることが黒いスーツ、ネクタイに身を包んだ小渕官房長官から告げられた。
 そのニュースで、その日が「天皇崩御の日」から「昭和最後の日」というイメージに僕の中で変わっていった。

 僕は台風のとき、どうしても川の水位がどうなっているか見に行きたくなるタイプの人間だ。まあ、野次馬ということだ。
 
 一通り崩御のニュースを家のテレビで確認した後、「皇居に行かなければ」と当然のように考えた。野次馬だもの。
 そして、地下鉄に乗って皇居に向かった。なぜそこだったか思い出せないのだけれど、パレスホテルのラウンジで軽い食事をとった。多分、これも何らかの野次馬根性だったと思う。「パレス」という語感に反応したのだろう。パレスホテル全体は悲しみに包まれているという雰囲気はなかった。

 皇居には以前から設けられていた記帳台に列ができていたが、思ったより人は多くなかった。ときどき、玉石の上に土下座して頭を垂れている人がいたりすると、獲物見つけた!という感じのメディアの人間がその人に群がってカメラを回していた。そして、その様子を僕もカメラにおさめたりしていた、30歳の私。
 
 とにかく、思ったより人が少ないと感じた記憶がある。
 昭和最後の日が暮れてきた。独身で土曜で会社も休み、報道記者でもない僕ではあるが、野次馬なので新宿・歌舞伎町に行くことにした。2019年の今日だったら渋谷スクランブル交差点に足を向けたところだが、彼の地が若者の聖地になるには、サッカーワールドカップ初勝利の日まで待たねばならない。

 コマ劇場前の噴水広場には、重苦しい空気もざわついた雰囲気もなく、普段と変わりないたたずまいだった。沢山の待ち合わせの人間、ギターで歌う若者も。

 ギターを弾き歌っていた、癖の強くない若者に、ジャーナリストでもないただの30歳の僕が「君いくつ? 今日天皇が崩御したけれど、どんな思い?」と質問した。
 若者は「19っす。いつもここで歌っているけれど、天皇のことと俺とは全然関係ないっすよ」と答えた。今から思えば、とっても昭和なのだけれど、その時は「オー、現代のヤング。シラけてる」などと思った。

 そして野次馬に飽きた僕は、新宿の小便横丁(焼き鳥横丁)の端っこ、トンネルを越えた一番駅よりの、今は全く面影がない一角「七福小路」に存在していた酒席「もん」の扉を開けた。
 
 小説家、俳優、各種メディア関係、それと一般のサラリーマンも含めた雑多だけど、ちょっとひとくせある客が、「素人料理」と称する極上の肴を出してくれるママを慕って集まる、知る人ぞ知る名店だった。客としては、僕は若い部類だったと思う。

 そこで、「昭和最後のビールちょうだい」とか「昭和最後のおしっこに行ってくる」などと軽口をたたいて、一人酒を飲んだ。そして「昭和最後のおあいそ、お願い」などといったりして。なんだか正しいオヤジの「昭和最後の日のすごし方」だ。

 30年ちょっと経った「平成最後の日」僕の今日は、朝からクロスフィットに行って汗を流し、西麻布の「沢村」でパン買って、家に戻りコーヒーを飲みつつ、どのチャンネルもなんとなく浮足立つプログラムを流すテレビを妻とながめ、遅いランチをとった。

 昭和最後の日のことを思い出して、今は61歳になった僕だが、時間の使い方としてはオヤジ的に昭和の日のほうが正しかったな、と反省する気持ちになった。

 お!ここで、具体的に61歳と書いてみて、今ちょっと何か愕然とするものがあった。なんだろう。「30歳」と「61歳」、文字面で見てみると全く別の生き物だ。
 
 このごろ、嫌になるほど耳にする「平成とはどんな時代だったのか」について考えようという気はないけれど、30歳から61歳、自分は別の生き物になったのか、ということについて考えてみたいと思った、ような思わないような…。

落ち着きのない、野次馬であることには変わりはないことは、はっきりしているけれど。誰も興味を抱かない、僕の30歳→61歳のピリオドについて、深く考えてみたいと一瞬思ったとき、なんだか「平成」と自分とのかかわりが少し見えてきたような気がした。

平成最後の日Reebok CrossFit Heart & Beauty  15kgのダンベル2つ抱えて孤独の旅路




 
 
 


 

 







2015年3月11日水曜日

GOMAさんの本



 オーストラリア先住民族のディジュリドゥ(オーストラリア先住民族が奏でる世界最古の管楽器)奏者で画家でもあるGOMAさんと編集打ち合わせ。社の会議室で、NHK、Eテレの番組で密着取材を受けているということで、テレビクルーを伴って。
 2009年、GOMAさんは交通事故によって外傷性脳損傷と診断され、現在でも高次脳機能障害を抱えながらライブ活動、創作活動を続けています。
 事故直後から、GOMAさんがうつろいゆく記憶の中で、時に混乱しつつも明日を生きるためにつづった日記を中心に収められた書籍を只今製作中。
 歳月の梯子を、ときには立ち止まり、ときにはダッシュしながら上っていくGOMAさんの本、初夏には書籍出版の予定。乞うご期待。Eテレ「ハートネット」のOAは、5月下旬ころとのこと。
 


取材スタッフを逆取材中(笑)のGOMAさん

2013年9月1日日曜日

博多における緊張と弛緩

 1年半年ぶりの博多出張。あまりそんな風には思わないのだけれど「せっかくだから博多ラーメン食べようかなあ」と、僕の摂食中枢が身体に命令を下した。
 ラーメンにそれほどこだわりがないので、その瞬間に目に入った『一蘭 天神西通り店』というお店に入った。それなりの人気店のようだ。お客さんが切れ間なく入店していく。
 お店に入って、まずたじろいだ。カウンターがなんだか選挙の投票所みたいに70センチぐらいごとに仕切られていて、隣のお客さんが何を食べているのかわからないように「工夫」されている。ラーメンを食べるのに集中していただきたい配慮、と張り紙が貼られていた。ラーメンにはどちらかというと集中より解放を求めるタイプの僕は、そこでとても緊張してしまった。
 食券と少しの緊張感を持ったまま個室スペース風カウンターに座る。そこで従業員の人に食券を渡せば事が済むかというとそうではない。同時に「味の濃さ」「麺の硬さ」「にんにくの有無」「ネギの種類」「油分」「辛さ」等々をカウンターに備えてある申告票に記入し提出しなければ、注文が完結したことにはならないのである。

 「お好みをご記入ください」という従業員の態度はあくまでにこやかでフレンドリーではあるが、「申告票にある質問すべてに答えなければ商品は提供いたしかねます」というきっぱり感も同時にただよわせていた。「おまかせします」というあいまいな姿勢は許さぬ雰囲気である。

 緊張はますます増していったが、ほぼすべての項の「普通」を丸で囲んで申告票を提出。無事注文を終えた安どの気分を感じつつ、僕は冷たい水をぐびりと飲んだ。
 この時点で、なんとなく目的を達し、店を後にしても良い気分になっていた。
 数分後、「おまちどうさま!」の元気なかけ声とともにカウンターの前の引き戸のようなところから差し出されたものを目にし、僕の緊張感はピークに達した。
 どんぶりから湯気を立てている豚骨博多ラーメンを想像していたら、なんとそこには黒陶の重箱がどしりと存在感たっぷりに鎮座していた。

 重たい蓋をゴトリとあけると、お重の中には間違いなく博多ラーメンなのではあるけれども、普段の庶民派を代表するような気安い表情ではまるでなく、「きちんと胃袋に収めてくださいよ」と低く囁く黒服といった面持ちの”別の何か”が佇んでいた。
 
 
 「すみません、ラーメンなめてました」という気分になってしまい、ニンニク入れず普通の硬さの麺と普通の濃さと普通の油のスープをいただいて、そそくさと店を出てきたのであった。
 おいしかったと思う、たぶん。





 緊張感を持ったまま、いつもお土産を買う「岩田屋」の地下食料品売り場へ。ここで僕はいつも明太子を買う。先ほどの「黒服ラーメン」のお店と違い、ここはぼんやり冷蔵ケースを眺めていると、必ずお姉さま方が話しかけてきてくれる。

 ラグビーの練習で骨折している僕の指を見て「あらー、どうしたの? わかった、だれかに噛まれたんだ」などと軽口を言ってくれたりして、ラーメン店で緊張していた僕の心は老舗デパートの食料品売り場できっちりと解放されていった。

 ここで販売している、海産物は本当に手頃でおいしいものがそろっているのだ。

 いつもおいしい海産物を教えていただき感謝。
 笑顔がとっても素敵です。また来まーす。

空港の売店では、種子島フェアが開催中。ここでも優しく素敵な姉さま方にいろいろと種子島の名産品を説明していただいた。ここでもまた、とっても美味なアジの開きと、やりイカを入手。とても心地よい気持ちで、帰途の人となったのであります。

「私たち種子島ではなくて博多の人間なの」いやいや、全然問題なしです。

2013年8月31日土曜日

介護福祉士の専門性 感情労働としての介護

  8月29日、30日と福岡で開催された「介護福祉教育学会」に参加してきた。  介護福祉士を養成する教育施設の教員たちが集う学会。

 
今回、主に討議されていたテーマが「介護福祉士の専門性」。国家資格として制定され、25年も経過したこの資格だが、 その専門性の定義を議論しなければならないという状況の介護福祉士、なかなか複雑な資格だ。

 この議論の根底には、看護師との関係性というものが存在する、様に感じた。最近の制度改正で、それまでは禁忌だった医療的行為のごく一部(痰の吸引等)が、介護福祉士にも認められるようになり、それがこの問題を浮き立たせている。 つまり「私たちは、看護師の補佐役ではない」という意識が、一部作業領域が広がることによってあらためて芽生え、そのことが自分たちの専門性とはいったい何なのであるか、という疑問につながってきたように思えるのだ。

 僕が参加した分科会で一人の発言者が、「介護は看護から生まれた領域ではない。むしろ、全人間的な視点を持つ介護から、看護が派生的に生まれたのだ」と声高に述べていた。「なんだかフェミニズム論みたいだな」と思った。

 看護師やコ・メディカルと言われる人たちが、自らの専門領域について議論することはあっても、その専門性とは何か(アイデンティティといってよいかもしれない)、について論じあうことはないだろう。 それは、その領域が科学的な根拠によってきちんと定義されているからである。

 専門性イコール科学的な裏付け、と捉えた時、介護福祉士の専門性はとても脆弱なものになる。どうしてだろう。  

 医療的ジャンルと明確に異なる点は、介護ははっきりと「感情労働」といえるからではないだろうか。「感情労働としての介護」という視点でその科学性を考えていくと、見えてくるものがあるかもしれない。

  心理学とは別のアプローチで「感情の科学」を論じていけば、介護の専門性が見えてくるのではないか。  

 介護版「感情の科学」の研究がこの問題を解決する近道かもしれない。

   「感情労働としての介護」について考えてみよう、と思った二日間だった。  

2013年8月16日金曜日

働くということ

 姪っ子が、職場を訪ねてきた。夏休みの宿題で、身近な人から仕事に関するインタビューをするというもの。
 「この職業を選んだ理由は?」「一日の時間の流れは?」「この職業をするにあたって必要な資格は」「仕事をして喜びを感じる時は?」「辛いと思うのはどんな時?」等など、次々と質問をされる。
 伯父さん、いいかっこうしなければ、高校生に夢を与えなければ…などと思いつつ、一言ひとこと言葉を選びながら、答えていった。久々に、シンプルに自分を振り返る、いい機会にもなった。
 そして、最後の質問…。ドキッとした。「あなたにとって"働く"ってどういうことですか」
 それまで、流ちょうに答えていたつもりなのだけれど、一瞬言葉に詰まってしまった。

 働くってどういうことだろう。

 とりあえず「働くって、自分は社会の中で生きているのだ、一人きりでは生きられないのだ、ということを確認する作業かな」と答えた。
 「たとえば、作家の人が一人で原稿を書き終えたとしても、それだけでは働いたことにならない、それを出版社の担当者に渡して、印刷屋さんが印刷して、また点検して、活字になって製本されて、それを本屋さんが読者へつないでくれる。そういった仕組みの中で行動するということが働くということなんじゃないかな」
「農業で言えば、自給自足で自分が食べる分だけの作物を作っていたら、それは労働とは言えないよね、その作物を食べてくれる人に渡して、その対価を得て初めて働いたということになると思うんだよね」などと答えた。

 姪っ子は僕の一言一言に対して、しっかりうなづきながらメモを取っていた。

 答えながら、働くってそういうことか、と自問自答していた。お前はいつもそんなことを意識して仕事をしているかと心の中でつぶやいた。

 30年以上勤め人をしていて「働くということの意味」について初めてきちんと考えてみようと思った、貴重なひと時だった。
 
 

2011年3月27日日曜日

そのとき

 その日の朝日新聞・天声人語では、ニュージーランドの震災で留学中の富山外国語専門学校の生徒28人のうち7人の尊い命が失われたことを伝えていた。

14時46分。

3月11日、僕はオフィス近くのビルの4階にある貸し会議室にいた。17時まで行われる会議だったが、僕は午前中だけ参加の予定だった。会議の流れで、午後3時まで出席しようと予定を変更した。

 そろそろ会議を抜けるころだ、と思った矢先の午後2時46分。会議室の床が大きくスライドし始めた。

 地震だ! と思いつつも縦揺れではないから大したことない、と一瞬思った。しかし、横揺れの幅が初めて体験する凄まじいものだった。

 ミシミシと建物のあちこちから、「破壊」を想像させる音が聞こえ始めた。会議に出席している人間は、12~3人。長机を両手で押さえる者、机の下に隠れる者、呆然とする者、窓から外を眺める者、、、その窓ガラスにピシッピシッと音をたててヒビが入った。

 1分以上経った、まだ揺れは続いている、エネルギーを増しながら。

 生まれて初めて経験する種類の恐怖。会議室の壁の一部がひび割れ、コンクリートの破片が床に落ちてくる。ビルが倒壊するかもしれない、と思った。

 そのとき、ふいに自宅の本棚がバタバタと倒れる映像が頭に浮かんだ。液晶テレビもバタンと音を立てて倒れ、画面が割れる。購入したばかりなのに。妻はパニックになっているに違いない。急激にに自宅が心配になった。妻がいるはずの自宅に電話を入れた。まだ揺れは続いている。電話は通じたが、誰も出ない。
 妻のケイタイにも電話したが、話中の状態。地震発生から3分ほど経過しただろうか、揺れはようやく収まった。

 会議の参加者も、我に返り自宅に電話したり、ワンセグでテレビを見たりし始めた。震源地は宮城県沖! と誰かがさけんでいる。震度7強!! どんな状態なのか。

 社内の会議であったので、それぞれが所属する部署に電話で状況確認を始めだした。当然会議はこの時点で終了ということになった。

 外に出た。あちらこちらのビルから人が出ていて車道も通行人でいっぱいになっていた。

 多くの若者がケイタイで動画を取っている。いや若者だけではない、おじさんも。ケイタイを向けている方向を見ると、新宿の高層ホテルがゆらゆらと揺れていた。1~2分おきに余震が来る。アスファルトの地面も揺れる。一瞬自分も動画を撮ろうかな、という思いが頭を掠めるが、こんなことでバッテリーを消費してる場合じゃないと自省する。

 事務所の入っているビルの前に、僕の部署のスタッフが集まっていた。会社からの指示で、とりあえず事務所の近くの広域避難所に指定されている明治神宮に皆で向かうことになった。

閉鎖された代々木駅前の道路
15時30分ごろ。
 明治神宮に向かう。近隣のサラリーマンや観光客と思われる外国人と一緒になる。道すがら家と妻のケイタイに電話するが全くつながらなくなってしまった。
 明治神宮・北参道に行くと、多くの企業の人間が避難してきていた。大手企業の従業員が多い。どこで大手企業と判断したかというとヘルメットをかぶっているかそうでないか。ヘルメット組は大手に違いない。ここまで来る途中、ビルの上から看板や、ガラスの破片や、窓そのものが落ちてくるのではないか、と、そんな恐怖を感じた。ヘルメットがとてもうらやましかった。

 妻への電話やメールはまるで通じなかったが、息子の通う中学から緊急メールが入った。息子は地震発生の時間、部活のラグビーをやっていたはずだ。
「生徒全員の安全が確認されました。バス・自転車・徒歩通学の者のみ帰宅させることにします。その他の生徒は交通機関が復旧しだい帰宅させます」とのことだった。ウチの息子は電車通学組みなので学校にとりあえず残ることになるだろう。学校からの緊急メールだけはこの後も定期的にきちんと届いた。何か別ルートでもあるのか。妻との連絡はまだ取れていない。ツイッターは、リアルタイムで機能している。妻もアカウント持っていればダイレクトメールが使えたのに、と思ったが夫婦でフォローしあうのも、なんだかなー、とも思った。

 明治神宮に避難した多くの者は宝物殿前の芝生広場に誘導されたらしいが、少し出遅れた僕は本殿のほうに向かってしまった。本殿には避難者と思える人は一人もいなかった。




 外国人も含めた観光客が数人いるだけ。何事もなかったように婚礼の儀式がおこなわれていた。その風景を見た僕は、なぜか「ああ、これはあまりたいしたことはなかったのだなあ」とそんなふうに思った。

16時ごろ。

 明治神宮から事務所に戻る。妻とは何とかメールで連絡が取れた。家にいると思った妻は、仕事の関係で国立近辺にいることがわかった。電車は動きそうもないので、とりあえずタクシーで帰ろうと思う、という。

 事務所に帰る途中の鉄橋で、電車から降り線路を歩く人々を見る。「怖いだろうなあ」と思う。数台の消防車・パトカーが出動、警察官が駅前の道路を封鎖していていた。ガス漏れが発生、危険だからこの道を歩かないでくれ、大きく迂回してくれとのことだった。ここもダメだろうな、と思いつつ裏の路地に入っていったらそこは通行OKだった。

 事務所に戻る。交通機関はほぼ全面ストップ、回復の見込みはなし。会社から、とにかく帰宅できる者は会社を出るように、との指示、幸い僕の部署のスタッフは、都内に住む者が多く、皆徒歩で帰るか、あるいは同僚の家に泊まることになった。外出中の人間の無事も確認された。

渋谷駅前

17時00分。
 何度かの余震を感じながらも、しばらくデスクにいた。窓ガラスがカタカタなるのが怖い。スタッフ全員が帰宅したことを確認した。帰宅できない者は、本社に集合するようにとの連絡があったが、自分は歩いて帰るか本社に留まるか、妻と相談し決めようと思っていた。が、まるでケイタイはつながらなかった。

 そのころには、関東の交通機関は今日は完全にアウトであることが決定的であることが分かった。17時40分、JR代々木駅のシャッターがカタカタと下ろされた。
 覚悟を決めた。歩いて帰ろう。とりあえず、家の中がどうなっているのかを確認したかった。会社から自宅へのルートは何度か車で走っているのでおおよそ頭の中に入っている。代々木の会社から川崎・元住吉の家まで、18キロから20キロくらい、3~4時間で帰れるだろう。

18時00分。

 代々木駅を出発。タクシー乗り場は人だかりになっていた。下ろされたシャッターの前に、私立小学校の2年生くらいの女の子がしゃがみこんでいた。家に帰ったものの、家人が不在だったのかもしれない。
 明治通りの歩道は、人であふれかえっていた。一部車道にはみ出してしまっている。早足で歩き、18時30分に渋谷駅を通過した。山手線なら5分のところだ。

 渋谷駅は、バス停もタクシー乗り場も人でごった返している。明治通りの歩道は、ますます人であふれている。ラッシュ時の電車内と同じような状況。

 並木橋を右に折れ、代官山方面へ向かう。小川軒を越える。バターサンド、と思う。ずいぶん様子が変わったなあ、美味そうな店が多いなあ、と思いながら代官山付近を歩く。
 なつかしい、ラ・ボエムがある!何度この店で夜更かししただろう。昔と変わらぬたたずまいがうれしい。ブンシュンのアズマさんによくおごってもらったなあ。午前様になって、この店のチーズケーキを嫁さんに買って帰ったなあ、などと考える。メールで妻はまだ、タクシー乗り場に並んでいると連絡してくる。タクシーは30分に1台くらいの割合でしかやってこないと言う。

 代官山駅を左に見て、山手通り越えて、中目黒駅を右に見つつ駒沢通りに入る。

目黒区総合庁舎前

19時00分。 
  代々木を出てちょうど1時間、中目黒駅を過ぎ、目黒区合同庁舎のあたりで、妻から連絡あり。息子は学校に泊まることになったと言う。学校の公衆電話から本人が連絡してきたという。いくぶん浮き浮きした声だったようだ。ひとまず安心。


碑文谷
19時35分。

 集団で帰る人が多く、何やらなごみ話しながら歩いている人が多い。こちらは一人、人波をかき分けかなりの速足で歩き続けた。少しひざに痛みを感じる。
 祐天寺を過ぎたあたりで、駒沢通りを左に折れる。ちょっと複雑な道に入るが、これが近道。油面小学校、中町あたりをくねくねと行き中央町、鷹番方面に向かって目黒通りに抜けるのだ。過去にタクシーの運転手に教えてもらった。
 駒沢通りを離れると、あんなに多くの徒歩帰宅者がいたのに、突然僕だけになる。とぼとぼと住宅街、商店街を抜けていく。おしゃれな店をいくつか見つける。カップルが楽しそうに食事をしている。やっぱりそれほど大事じゃないのかな、とまた思う。

 目黒通りに出る。ほっとする。ここまできたら俺のシマ、となぜか思う。とりあえず予想通りの時間に家に帰れそうだ。

 目黒通りでまた多くの徒歩帰宅者たちと合流。やっぱり心強い。碑文谷のダイエーに入る。食料品売り場で何か買おうとしたが特に喉も渇くこともなく、何も買わず。店にはほとんど客はいなかった。店の前のベンチで5分ほど休憩する。左膝をさする。


自由通りを越え八雲三丁目の交差点を左折、目黒通りを離れ自由が丘へ向かう。

 
自由が丘駅
20時05分。

 自由ヶ丘駅到着。交番横の公衆トイレに入る。自由が丘は息子とよく遊びに来た街。まだ小さかった息子と何度かこのトイレに入ったなあ、などと回顧。交番の並びに東急プラザがある。
 ゆっくりメールでも打とう、とエントランスに入ると数十人の行列ができている。なんと、公衆電話にならぶ行列だった。主婦が多い。買い物帰りなのだろう。ケイタイはほとんどつながらない状態が続いているが、公衆電話は大丈夫と道行く人たちが話していたのを思い出す。

 交番で、武蔵小杉方面にはどう行けばよいのですか、と聞いている女の子がいる。僕と同じ方向だ。警官が「うーん、中原街道に出るのが良いかな」と言っている。いや、それは遠回り、このまま自由通りと並行に環八に向かったほうがちょっと早い、でもその先は慣れていないと迷ってしまうかもしれないから、と黙って通り過ぎた。

 環八に向かいゆるい坂道を登っていく。田園調布本町、「PATE屋」の看板が見えてきた。林のりこさん(建築家・磯崎新氏の元奥様、エッセイスト)のお店。パテってこんなに美味しいんだ、と教えてくれた店。清水ミチ子が働いていた店としても知られている。20数年前、ピアニストの鈴木恭代さん(ご主人は建築家・鈴木恂氏)に紹介してもらった。その向かいには、今年で100歳、日野原重明先生邸。打ち合わせで何度かお邪魔したことがある。日野原先生、まるで動じてないだろうな、と想像する。坂道で左ひざの痛みはちょっと増してきたけれど、なんだか少し元気になる。

 環八を越え、田園調布。駅のほうへは向かわず、多摩川台公園方面へ進む。蕎麦屋・兵隊家は営業している。お客さんもそこそこ入っているようだ。兵隊家を左に見ながら宝来公園の脇を通り多摩川駅方面へ坂を下る。歩いている人間は僕だけだが、ここは玉堤通りへの抜け道、普段はほとんど自動車など通らないのだが、今はものすごい数のタクシーが渋滞している。歩きながらタクシーを追い越していく。何気なく、料金表示を覗き込む。どのクルマも4000円~7000位を示している。俄然元気が出てきて、ずんずんタクシーを追い抜く。

多摩川駅
20時35分。

 田園調布を抜け、東横線多摩川駅到着。駅構内で妻にメール、ようやくタクシーに乗れたところだと返信あり。2時間待ったとのこと。同じ方面の人4人での乗り合いだという。国立からクルマ、いったい何時間かかるのだろう。確実に僕のほうが先に帰宅できるだろう。

 丸子橋に出る。中原街道から横浜方面に帰る人々と合流、仲間意識が芽生える。また元気が出る。橋の半ばあたりで皆が海側を眺めている。はるか彼方でものすごい勢いで炎が上がっているのが見える。「お台場のほうじゃないか」と言っている人がいる。急に恐怖心が芽生える。やはり、大変なことが起きているのだ。暗闇に炎がはっきりと見える。音はしない。後から知ったことだが、千葉市原市のガスタンクの火災だった。

 川崎は全域停電だよ、と会社の人間に聞いていたのだが、橋を渡って川崎側に着いても電気は点いている。コンビニも普通にあいている。歩き出してから3時間近く経つが、不思議に喉も渇かず腹も減らない。興奮しているからか。

 綱島街道を僕の最寄り駅、元住吉に向かって歩いていく。高層マンションが立ち並ぶ武蔵小杉に近づく。唖然とする。高層マンションの電気がすべて消えている。真っ黒な摩天楼。やっぱり川崎は停電している。ところどころ電気が灯っているビルもある。ウチのほうも停電でなければ良いのだけれど、祈るようにつぶやく。

 関東労災病院を抜ける。昨年父が入院していた病院だ。電気は灯っている。医療施設なので自家発電なのだろう。

 
元住吉駅からブレーメン通りを臨む
21時10分。

 元住吉駅に着く。駅は真っ暗だ。商店街も真っ暗。ゴーストタウンのようになっている。普段はにぎやかな商店街、テレビでも時々タレントがぶらりと歩いたりして紹介される、そんな商店街の街灯という街灯が一切灯っていない。こんな風景は見たことない。森の中の一本道のようだ。

 駅前の銀行にかすかな明かり、その中で、数人の人が椅子に座り話をしているのがちらりと見えた。とにかく家までの10分足らずの道を歩いていった。時々懐中電灯を持つ人とすれ違う。
 コンビニももちろん真っ暗だ。やはり、大変なことが起きている、と再度納得した。

 21時18分、代々木を歩き出してから3時間と少し、我がマンションにたどり着く。真っ暗闇の中、オートロックの入り口はどうなっているのか心配だったが、開け放たれていた。管理人や警備会社の人は見当たらない。後から、非常時のセキュリティはかなり低いマンションと思ったが、しょうがないか。

 恐る恐る、鍵を回しドアを開ける。倒れた書棚、食器棚、テレビ、壁から落ちた絵画、散乱した書籍、粉々に割れた食器、、、頭の中でシミュレーションする。真っ暗な玄関、シューズボックスの上においてあった懐中電灯を手に室内を点検する。

 幸いなことに室内はほとんど変化がなかった。本棚も食器棚も金魚鉢もテレビもすべて無事、朝出かけたときと全く同じ状態であった。

 ロウソクをともして、ソファに深く座り込む。まだ左足がかすかに痛む。
 ガスは無事、やかんで湯を沸かし買い置きのカップ麵をすすって落ち着く。ろうそくの明かりの中でラジオを聴きながら、妻の帰りを待つ。

 午後10時30分ごろ、電気が回復。一晩は少なくとも電気なしだと思っていたので、なんとなく拍子抜けする。


23時15分。
 テレビをつける。午後11時を回ったところで妻が帰宅。日常が戻ってきたような気がした。
 震災の恐ろしさを実感するのは翌朝以降のことだった。

2011年3月8日火曜日

経堂に名店あり


  経堂の駅前、商店街から少しはずれ、路地を入ったところに居酒屋「いちふく」がある。
昨年の四月、大事な人の不幸があり、この街を訪れることになったのだけれど、なにげなく入ったこの店が、大当たりだった。
 とにかく何をたのんでも美味い、そして、安い。
駅前の路地にひっそりとたたずむ
 集まってくるのは、ほぼ9割が常連さんだが、正しい居酒屋には正しい酒飲みが集まる。
 とても落ち込んでいたときだったのだが、いちげん客を排除するような雰囲気は全くなく、初めてなのにカウンターの先客の方と「あ、どうも、どうも」という感じで会釈。かといって、店主とも、連れ以外の客とも、無駄な会話をせず一人で、夫婦で、あるいは、仕事仲間と酒と肴を楽しんでいる。
 とても居心地の良い居酒屋。

常連さん・みんな笑顔

 その次に訪れたのも、偶然ではあるが、絵本作家・さわだとしきさんの葬儀がこの街であり、その帰りに寄った。しみじみと静かに酒を飲める店でもあるのだ。
この日は装丁家の代田奨さんとの打ち合わせで。僕以上のこの店のファン、遠く本郷の事務所からやってくるほど

ふきのとうの天ぷら なんと380円
もともと「あさひや」という居酒屋の名店があった場所に、居ぬきで開店したとのこと。「あさひや」は写真家の浅井慎平さんが常連だったと聞く。店内の写真も作品として残されているとのこと。その写真は「いいちこ」の広告に使用されたらしい。今は全く別の店ではあるが、”名居酒屋”の空気は十分残っている気がする。
レバー苦手な僕も、唯一この店のレバ刺しは食べられるのだ(運が良いとメニューに加えられる)
 この日も、ほどよく仕事の話をして、ほどよく飲んで、ほどよくこれからのことを語り合って、ほどよく昔話もして、気持ちよく店を出た。
 代田さんがあまり肴に手を伸ばさないので、料理は僕がほとんど平らげてしまった。この店の〆の定番「焼きそば」は、お土産にしてもらう。
 家に帰ってから妻と食す。妻もその美味しさにびっくり。
 帰り際に、サービスで出していただいた蕗味噌がとても美味しかったので「これで御飯食べたら美味しいだろうなあ」などと口走ったら、「これ持って帰って」と手作りの蕗味噌を1ビンいただいてしまった。ちょっとずうずうしかったかなあ。
 その蕗味噌で、焼きそばだけでなく御飯もちょっとだけ食べた。太るわけだ。

僕が東京の居酒屋で一番美味しいと思っている「やきそば」、帰宅してからチンして食べてもひたすら美味かった。


2011年3月4日金曜日

博多新駅で、なぜ2番じゃいけないのか理解する

 3月3日ひな祭り。ぼんぼりに灯りをつけず、早朝、出張のため僕は福岡に飛んだ。

 操縦室からの「えー、機長でございます。今日は素晴らしい天候で、あー、窓からは富士山がとてもきれいに見えます。日本アルプスの雪をいただいた山々も素晴らしい景色です。短い旅ではございますが、えー、皆様、機内で、くつろぎのひと時をおすごしください。」というアナウンスをこの日は、窓側の席でない僕はもどかしくそれを聴いたのであった(しつこいが僕は飛行機の窓からの光景が大好きなのだ)。
しかたなく座席の前のモニターから日本アルプスの雪景色を眺める

 そして、福岡空港から地下鉄で博多駅、午前10時少し前には到着。そこには僕のまるで知らない街が存在していた。

 JR博多シティ 左側がアミュプラザ、右側が阪急百貨店

3月12日の博多=鹿児島間、九州新幹線・完全開通を1週間あまり後に控え、長期間続いていた博多駅の改修工事が終了。ぴかぴかの姿を現していた。

 駅ビルには阪急百貨店とAMUプラザという二つの巨大おしゃれショッピング施設が併設されており、印象としては札幌駅に近い、というか名古屋駅や京都駅などこの10年前後にリニュアルされた、大都市のこじゃれた駅のコンセプトとほぼ同じように感じた。

 オープン初日なので当然と言えば当然であるが、平日の午前中というのに駅前は人人人であふれていた。博多と言えば天神、なのであるが今日はさすがに「天神はガランとしちょったけんねえ、、、」みたいな会話がそこここで聞かれた。


 駅ビルへの入場はそれぞれの商業施設の2箇所に規制、阪急百貨店側からの入店は30分以上かかり、
アミュプラザは4~5分程度だった。実はビルの中は連絡されていた

 屋上も面白いよ、と聞きつけ、昼飯どきに行ってみた。そこには、何が奉ってあるかわからないが「鉄道神社」なるものが存在し、参拝客でごった返していた。みなさん、小さな祠の前の賽銭箱に小銭を投げ入れ、さすが山笠博多っ子、きちんと二礼二拍手一礼している。ちょっとシュールな光景ではあった。何の神様ですかと問えば一様に、よくわからんと笑顔で首をひねる。
鉄道神社を参拝する人々

 屋上広場には、さらにミニSLが走り、ドッグランのスペースもある。土・日には子どもと犬たちがあちこちを駆けずり回り、すごいことになるだろう。

 また、屋上は展望台の役割も果たしており、多くの人が博多の街をバックに記念写真を撮っていた。あいにくこの日は天気が悪く視界不良だったが、晴れた日はきれいに博多湾が一望できるという。屋上の柵ごしに見る博多の街の迫力は、曇り空とはいえそれなりのものがあった。

 柵から、少し離れたところに、4~50センチくらいの高さの狭い舞台のようなものがあり、そこが博多駅屋上の頂上というか、標高最高地点となる。

 50センチ高くなったとしても周りの景色に変わりがあるものではないが、屋上に来た人はみんなその頂上を目指していた。 独りよがりに長居することもなく、きちんと順番を守りその最高標高地を楽しんでいた。

 人間の欲望、いや向上心とはなんとキリがないのだろう、人は1ミリでも上を目指す、やっぱりナンバー2で終わってはいけない、せっかくならナンバー1に登り詰めたくなるのだなあ、などと斜にかまえていた僕も、我慢できず列に並んでその舞台の上に登っちゃった。

 やっぱり見える景色に変わりがなかったが、なんとなく心の奥深くに抱え持つ征服感なるものが満たされ、天下をとったような気分になってしまったのであった。
頂点をきわめた人々 自然と未来に想いを馳せる表情になる
高所恐怖症の僕もここなら大丈夫
 


ひねくれゆうちゃんの赤いかさ(5)


 「うれしいな、すてきだな」

 真っ赤な布地のはしっこにかわいいピーマンとニンジンの絵がこうごに描かれた赤いかさはゆうちゃんが想像していたとおりのものでした。

 おばあちゃんから電話があった、きっかり1週間後におばあちゃんはゆうちゃんのおうちを1年ぶりに訪ねてきました。

 「ねえ、お母さん。このかさ、さして歩いてもいいでしょう」

 ゆうちゃんは“いっしょうのおねがい”という顔をして、おかあさんにそううったえます。

 「そうね、せっかくのおばあちゃんらゆうちゃんへのプレゼントだものね」

 おばあちゃんも、

「きちんとおちついてさすのよ」

と言ってくれました。

 「やったー。お母さんもおばあちゃんも大好きっ」

 ゆうちゃんは、お家の中をかさをさして、台所も居間もぐるぐると行進してまわりました。

「おうちの中ではいいと言ってませんよ」

 お母さんとおばあちゃんは同時にゆうちゃんにそういいました。

 ゆうちゃんはかたをすくめて舌を出しました。

 ゆうちゃんはその日、おばあちゃんからもらったたいせつなかさをきちんとまくらもとにおいて、いっしょにねむりました。                                      (つづく)

2011年3月2日水曜日

焼酎とストローと、超能力

 作家・松兼功さんと約2年ぶりにお食事。松兼さんは、脳性マヒによる重度の障害を持つ。

 作家としてのデビュー作は「お酒はストローで ラブレターは鼻で」(朝日新聞社)。生まれながらの自身の障害と向き合い、様々なバリアと格闘しつつも、青春を謳歌する生活ぶりを描いた好著。刊行とともに大きな話題を呼びテレビドラマ化もされた。

 松兼さんとは長いお付き合い、かれこれ15年以上になるか。葉祥明さんとの詩画集「やさしさの引力」、エッジが利いた日比野克彦さん装丁デザインの「ショウガイノチカラ」の2冊を担当した。

 二人であちらこちらを旅して回り、酒場で杯を酌み交わした。その、松兼さんとパートナーのれなさんと、新宿御苑の居酒屋「炉庵」で再会。

松兼功・れなさん

 ふきのとうの天ぷら、美味しかったあ

「炉庵」は、「発達障害当事者研究」「つながりの作法」の作者・綾屋紗月さん、熊谷晋一郎さんご推薦の店。(熊谷さんは、松兼さんと同じ障害を持つ。昨年「リハビリの夜」で新潮ドキュメント賞受賞)

 「炉庵」は、料理が美味しくて、そしてお店全体のバリアフリー環境が整っている。だから、身体的障害を持たない人間も本当に落ち着ける空間になっているのだ。(障害者用トイレに入ると広々と気持ちいい、と感じるあれに近いと僕は思う)

 そんな空間での3時間あまり、楽しかった。新企画も何本か産声をあげそうな気配。

 ちょっと印象に残った話一つ。

 手が不自由なため、ストローで酒を飲む松兼さん。「ストローで飲むと酔いがはやくなるってホントですか」と言う質問をたびたびされるという。当然「僕はストローでしか酒を飲んだことがないから、比較できません」と答える。

 この夜もそんな話題になった。僕も、おふざけでビールをストローで飲んだことがある。確かにグラスから飲むより、味は苦く感じ、酔いも早く回りそうに思う。で、この夜は初めて芋焼酎の水割りを松兼さんのストローを奪い、チューっと吸ってみた。あれ、直接グラスに口をつけチビリとやるより美味しく感じる。

 「ビールと違って焼酎は、なんだかストローで飲んだほうがすっきり感じる!」と僕は感歎の声を挙げた。

 そしたら、松兼さん、大きく体をゆすりながら満面に笑みを浮かべ、「そうでしょ、そうでしょ、焼酎の場合はそうなんですよ」と言う。

 僕は、思った。
「あれ、このオトコ、違いがわかっているじゃないか、ありえないのに。超能力者に違いない、ちょっと焼酎呑みすぎの」
松兼さんからかすめとった、愛用のストロー2本

2011年2月27日日曜日

雲の上で想ったこと

 2月24日、25日と広島へ出張。

東京方面から、広島というと飛行機か新幹線か迷うところであるけれど、昼まで東京で仕事をし、16時前には広島入りして打ち合わせという予定だったので、必然的に空路ということになる。よほどの飛行機嫌いでないかぎりこの選択が正しい。

 それに、僕は高いところはからきしダメだけれど(観覧車にも乗れない、たぶんスカイツリーも一生展望台には近寄らないだろう)、飛行機は全然だいじょうぶ、というか窓から外を眺めるのがことのほか好きなのだ(揺れたりするとすぐに家族への遺書を書こうと思ってしまう臆病者だけど)。 

 運よく窓側の席が取れた。シートベル着用のサインが消えた頃から、ボーっと窓の外を眺めていた。あきない。雲の上の風景っていつでも人の心を平穏にやさしくする。地上が厚い雲に覆われているときや、雨降りでないと雲の上の風景は見られない。快晴ではいけない。皮肉といえば皮肉。だからよけい得した気分になるのか。

東京から広島へ

ふいに、昨年12月初旬に他界した父を思い出した。半年間入院の末、元気な状態で自宅のベッドに戻ることがかなわなかった。その父が、よく「飛行機に乗って、どこでもいいから旅をしたいなあ」と言っていたことを。

父も、この景色が見たかったのだろう。やさしい気持ちになりたかったのだろう。

父はまだこの雲の上にはいないはずだ。今日も曇り空の下、世話になった人たちの様子を伺いに、あちこちぶらぶらしているに違いない。
広島から東京へ
 
母は、12年前に亡くなった。母と父がこの天上にいるのだ、と思えるようになったとき、機内から見る雲の上のこの光景もまた違ったものに思えてくるのだろうか。

2011年2月23日水曜日

「すぐに忘れられちゃうんですよねえ」

 「すぐに忘れられちゃうんですよねえ」とその彼女が言った。
 職場における仕事の話だ。彼女は、僕より多分20歳以上年下の同業者。僕と同世代の上司に対する、まあよくある愚痴。
 いろいろと報告をして”考えておこう”と返事をもらっても、一向に指示が出てこない、ということらしい。
 僕は、「そうだねえ、色々な仕事抱えているだろうからねえ。俺も、なんでも忘れちゃう。だから、なるべく覚えているうちに、すぐに動くようにしているのだけれど。放っておくと、自分たちの時間の流れだと、すぐに1ヵ月2ヵ月たっちゃうからね」とこたえた。
 異論はあった。-そんなの昔からいっしょ。だから、何度もしつこくこたえを求め続ける。そして、ダメとはっきりいわれなければ、もう動いてしまう。そうしてはじめて、上司は本気になるのだから・・・-たぶん、一言では、上手く伝わらないと思ったので「まあ、自分のことも含めてとにかくすぐに動くしかないね」とだけ言った。
 「忘れられちゃう」ほうが仕事はしやすいときもあるんだよ。
 とにかく、フットワークだ。そして「打つべし、打つべし、打つべし」と帰りの電車の中で彼女に言いたくてもなぜか言えなかったことを心の中で反芻していたら、なぜか僕自身、元気が出てきた。うん、明日のために!
 ああ、これも、忘れちゃうかなあ。


ひねくれゆうちゃんの赤いかさ 4

 「おみやげといえばね、ゆうちゃんに会いたくなったのは、そのおみやげのせいなんだよ」とおばあちゃん。
 「え。なになに?」
 ゆうちゃんはドキドキして、おもわず電話に思いっきりくちびるをくっつけてさけんでしまいました。
 「ゆうちゃん、そんなに大きな声をだしたらみみがこわれてしまうよ。あのね、とってもいいものをデパートで見つけたんだよ。それを見つけたら、つい買ってしまってねえ。ゆうちゃんがとてもよろこびそうなものだったから」
 「ねぇ、ねぇ、ねぇ、おばあちゃん。なーに、それ、はやく言ってよ」
 ゆうちゃんのくちびるはますます電話にくっついていきます。
 「あのね、とってもかわいい赤いかさなんだよ。ピーマンとニンジンの絵がかいてあるの。おばあちゃんはそれをゆうちゃんにプレゼントしたくてね」
 おばあちゃんは、ゆうちゃんが電話に口をくっつけて大声を出すのをけいかいして、受話器からみみをとおざけて話しました。
 ぎゃくに、ゆうちゃんはうれしさのあまり、何もしゃべることができなくなってしまいました。
 「ねえ、ゆうちゃん。きこえてる?どうしたの?」
 おばあちゃんは、心配になってたずねました。
 「バンザーイ!!!」
 ゆうちゃんはありったけの大声を出してさけびました。
 おかげでおばあちゃんの右耳は、そのつぎの日までよく聞こえないほどでした。
                                  (つづく )

2011年2月20日日曜日

佐野眞一さんの言葉と「団塊世代」の可能性

朝日新聞読書欄・佐野眞一氏の『本を開けば』が面白い。今朝は森達也さんの『A3』を紹介していた。
「ノンフィクションを一言で定義すれば、つい本当だと思ってしまう、テレビやインターネットで日々押し寄せてくる情報について、事実を丹念に掘り起こし、実は何も知らなかったことを読者に気づかせる文芸」という。けだし正論。
「森達也は、あなたは本当にオウムを知っているのですか、もっとあからさまに言えば、死刑判決が出た麻原を”吊るして”終わりにしてしまって本当にいいんですか、と執拗にと問いかけている」と。
「麻原がメロン好きだいうことまで報じたメディアが、今ではオウムに対し完全に口を閉ざしているのはおかしくないか」と批判。
そして、「オウムに対して騒ぐだけ騒いで、深刻に考えざるを得ない局面になるとスルーする。連合赤軍に関し見てみぬふりをしてきた同世代の私にはこうした社会風土を作ることに加担したのではないか、という思いがある。傷口を開けられるようで、読むのが辛かった」と語る。
団塊の世代がもう一度社会のムーヴメントをつくりうるとすれば、こういう反省から立った発想を持つことではないか、とその世代をちょっぴり批判してしまうことがある僕が、まじめに考えた。
 加藤仁さんに吹っかけたら、どういっただろう。ああ、酒飲みながら語り合いたい。



ひねくれゆうちゃんの赤いかさ 3

 そんなゆうちゃんに、6月のある日、とびきりのニュースがとびこんできました。
 プルルルル・・・・・・・・プルルルル・・・・・・・・
 ゆうちゃんが一人おるすばんをしていると、いきなり電話がなりだしました。電話はいつでも、とつぜんにかかってくるものなのですが、ゆうちゃんはいっしゅん、どきんとして受話器に手をかけました。
「もしもし、おばあちゃんだよ」
 山形のおばあちゃんからの電話でした。
「なぁんだ、おばあちゃんか」
 ゆうちゃんは、ほっとしてそう言いました。
「おばあちゃんか、だなんて、ゆうちゃんおばあちゃんからの電話でがっかりかい?」
「ううん、だぁいすきだよ。ねぇねぇ、おばあちゃん、元気?」
 ゆうちゃんは山形のおばあちゃんのことが本当に大好きなのです。
 とってもやさしくて、いつも東京のゆうちゃんの家にくるときには、とびっきりのプレゼントを持ってきてくれます。
「おばあちゃんは元気、元気。そろそろ、ゆうちゃんのお顔が見たくなってね。東京に行こうと思ってるの」
 おばあちゃんは、いつものやさしい声でそういいました。
ゆうちゃんは受話器のすぐ向こう側におばあちゃんのにこにことした笑顔が見えるような気がしました。
「わぁーい。ゆうこ、うれしいなあ。ねえねえ、おばあちゃん。この前もってきてくれたサクランボ、とてもおいしかったよ」
「なんだか、おみやげのさいそくをされているみたいだねえ」
おばあちゃんは、きげんのよいときの声で話します。   (つづく)

2011年2月19日土曜日

加藤登紀子さんとエディット=ピアフな夜

 自由ヶ丘に夫婦で買い物に出かけ、「ケチャップ」というお店で昼食。僕はパスタと妻がピザ。パスタは生めん。生めんのパスタと言えば、昔よく食べた代々木の「孔雀の舌」が美味しかったなあ。二日酔いの日に食べる、独特のカルボナーラの味はいまだに僕の味覚中枢に貼りついている。今は人形町に店が移転したらしい。

 ピザは3種類のチーズがのったシンプルなもの。ブルーチーズがポイント、美味しかった。

  モッツァレラとブロッコリーの生パスタトマトソース           3種チーズのピッツァ

夜は、六本木「スイートベイジル」で加藤登紀子さんのライブ。バックにジャズピアニストの島健という豪華な組み合わせ。二組のご夫婦と会場で待ち合わせ。 僕だけは一人。

 普段の登紀子さんのコンサートとちょっと味付けが違う、シャンソンを中心にそのときに登紀子さんが「歌いたいものをきっぱり歌う」ライブ。今夜は、彼女が愛するエディット=ピアフの物語が中心に添えられていた。 

 エディット=ピアフの作品「愛の讃歌」「バラ色の人生」、そして、登紀子さんがピアフに捧げたオリジナル「名前も知らないあの人へ」「ペール・ラシェーズ」。

 「名前も知らないあの人へ」はピアフが18歳のときに亡くした娘のことを思う夜のことを歌った。「ペール・ラシェーズ」はピアフと2歳で死んでしまった娘のマルセルが眠っているパリ郊外の墓地、パリ・コミューンに蜂起した市民兵士たちが多く殺された場所でもある。

 素晴らしい4曲だった。人生を感じた。生きる力を感じた。命を感じた。鳥肌がたちどおし、圧倒された2時間だった。

 よし、ピザとか食ってるだけでなく、今度は妻と一緒にコンサートへ行こう、と一瞬思う。

2011年2月15日火曜日

ウソつかない道具はなーに

 大宮駅のすぐそば、「弁慶」という路地を少し入った縄のれんの店にS君とふらりと入る。気風のよさそうなマスターとマスターのお母さんと思われる二人が店内を切り盛りしていた。

 そして、カウンターの奥には、二人の子どもが寄り添って仲良く遊んでいる。マスターの娘と息子らしい.
小学校2年生のお姉ちゃんと4歳の弟だという。二人ともとても人懐っこくて可愛い。都会の店ではちょっと珍しい光景。

 なんか、離島の居酒屋に行ったような気分になった。沖縄の小さな焼き鳥屋さんなどには、店の中で小さな子どもが普通に遊んでいることが多い。家族で訪れたりすると、子ども同士すぐに仲良くなり、親たちだけで食事ができてしまう。

 「弁慶」のふたりの子どもも同じ、お父さんとおばあちゃんに注意されながらも、じょじょに二人は我々の方にちょっかいを出しに来る。



 お姉ちゃんが、僕たちにクイズを出してくれるという。弟くんはその答えを言いたくてしょうがなく、お姉ちゃんに許しを乞うている。お姉ちゃんは、こっちのおじさん(S君)には言ってもいいけど、あっちのおじさんは絶対ダメ、などといっている。差別だ。弟くんは、僕のほうをいたずらな目で見ながら、嬉しそうにS君に耳打ちをしている。

 「わかったら手を上げて答えてください!」とお姉ちゃん。
 「ハーイ」僕。

 クイズの内容。
 1減っても減ってもなくならないもの、なーんだ。
 2固くて食べられない果物、なーんだ。
 3母には会えないけどママには2回会える、なーんだ。
 4ウソをつかないお母さんがよく使う道具、なーんだ。
 5すぐ怒る虫、なーんだ。

 2以外、正解した。
 皆様も一緒にお考えください。
 (答えは明日以降)

 7時ごろ仕事帰りと思しき、やさしそうなお母さんが店に迎えに来て、二人はとても幸せそうな表情で僕らとハイタッチをして帰っていった。



 僕らには誰も迎えは来なかったけれど、とてもあたたかな気持ちになって僕らも店を出て大宮駅に向かった。

2011年2月14日月曜日

キックキックトントン

 たしか天気予報にはなかったはず。午後6時ごろから東京地方もしずかにふっていた雨がひらりひらりと雪に変わり、7時からはバサバサとしっかり積もりまっせという迫力のある降雪となった。


 「猫のひたい」の我が家のベランダもこんな感じ     駐車場もすっかり雪国

 僕は戌年なので、雪が降ってくると心がときめく。今夜のような、予期せぬ雪は尻尾があったらちぎれるくらい振ってしまうだろう。
 雪はいい。普段でこぼこした場所をきちんと平らにしてくれる。気持ちいい。大好きな、宮沢賢治の『雪渡り」の一説。


 「・・・・・四郎とかん子とは小さな雪沓をはいてキツクキツクキツク、野原に出ました。」
 「こんな面白い日が、またとあるでせうか。いつもは歩けない黍の畑の中でも、すすきで一杯だった野原の上でも、すきな方へどこ迄も行けるのです。平らなことはまるで一枚の板の上のやうです。そしてそれがたくさんの小さな小さな鏡のやうにきらきらいきらきら光るのです。」
 森に入っていった四郎とかん子は。白狐に出会い仲良くなり一緒に踊りだします。
 「キツク、キツク、トントン。キツク、キツク、トントン。」     
  この賢治の擬音、たまらない。
  どんな町中にいても、雪が一面を白く覆いつくすとホント、狐が出てもおかしくないような気がするのだ。
 けれど今日は、電車を降りたら狐ではなく、尊敬する映画作家・想田和弘監督の『選挙』に登場する山さん見たいな人に出会ってこれはこれでシュール。新風に吹かれて風邪ひくなよ。


ネズミ男の後ろ姿みたいではある。




ひねくれゆうちゃんの赤いかさ 2 

 ゆうちゃんの夢は、まっ赤なかさをさして、雨のまちを歩くこと。それをくるくる回しながら、水たまりのなかでも元気よく、スキップをして歩くのです。

 ようち園の道のりだって、どんなに楽しくなることでしょう。

 でもお母さんは、ゆうちゃんが小学校に入学するまではがまんしなさいと言いいます。

 歩くさきがよく見えなくなってしまうし、かさのふちが目に入ってしまうかもしれない。

 レインコートさえあれば、ぜんぜんだいじょうぶ。だから、小学校に入ったらかさをかってくれると言うのです。

 ゆうちゃんが小学校一年生になるまで、あと一年かかります。これから夏が来てプールや海に行って、秋になっておイモほりをして、冬になって雪がふったら、雪だるまをつくって・・・・・・。

 それでもまだまだ一年はたちません。なんて気の遠くなるような長い時間なのでしょう。

 だからゆうちゃんは、雨ふりの朝はきまって、

「ねえ、お母さん。今日はかさをさして出かけていいでしょう。ねえってば」

 とねだります。

 けれどもお母さんは、いつでも

「ゆうちゃんにかさはまだ早いわね。なれていないととてもあぶないんだから。それに風がふいてきたら、ゆうちゃんなんて、かさといっしょにふきとばされてしまうかもしれないんだから」

ときっぱり言うのです。

 そしておまけに、

「あんまりわがまま言うと、今日のカレーはにんじんぬきよ」

なんてつけくわえるのです。

 ゆうちゃんは、かさのさしかたなら、もう頭の中でなんどでもれんしゅうしているので、目の前が見えなくなるようなことなんてない、 というじしんがたっぷりあります。それに、万が一風にふきとばされたって、それはそれですてきじゃないですか。

 かさといっしょに空をとんでいくなんて、メアリーポピンズみたいで、ワクワクします。

 だから、ますますかさをさして歩きたいという気持ちが強くなってくるのです。

 でも、にんじんぬきのカレーはこまります。

 ゆうちゃんはしかたなく、レインコートをきて雨の町にでかけます。

 「ちぇっ、おかあさんのわからずや」

 ゆうちゃんは口をとがらせながら、レインコートのフードをまぶかにかぶって、雨のまちを歩くのです。

                                                      (つづく)

2011年2月13日日曜日

ブログ復活(しようかな)

このところ、ツイッターの140字の世界に引き込まれてしまってブログを更新してこなかった。やっぱり140字はさえずりで、ちょっとつぶやきたいことがあるときはブログもいいかな、ということでブログを復活(しようかな)。ブログ用に書きためたものがあるので、遡ってアップするかもしれません。

 などと思いつつ机を整理していたら、まだ息子が生まれる前に書いた子ども向けの創作話の原稿が出てきた。




 未だ見ぬ「自分の子どもに読んでもらおうと、書いたのだが、なぜか女の子向け。僕には、女の子がいないし、息子も中学2年になろうとしており、ラグビー部で鍛えられつつあり首は太く胸板も厚くなり始め、ちょっと恐怖を感じるときもある。読んでもらう機会を逸してしまった。恥ずかしながら、とここで少しずつ発表(不連続連載)。



ひねくれゆうちゃんの赤いかさ 1

 ひねくれゆうちゃんは、、本当はゆうこという名前なのですが、なぜそうよばれているかというと、まだ5さいのくせにピーマンとニンジンが大好きだからです。 

 ね、とってもひねくれでしょ。  

 ゆうちゃんは雨ふりも大好きです。 雨ふりがつづくとようちえんのお友だちはみんな、

 「雨ふりはいやねぇ」      

 とまるでお母さんのような顔をして言います。

 でもゆうちゃんは

「そんなことないよ。雨ふりって楽しいよ。雨つぶがほっぺたにぽつんとあたると気持ちいいよ。」

といいかえすのです。

 お友だちはまたまたいいかえします。

「雨ふりだとさ、うんどう会や遠足がちゅうしになるじゃん。やっぱりやだよ」

 けれどゆうちゃんも、またまたまたいいかえします。

 「雨ふりだって運動会はできるよ。地面がつるつるして、いつもよりおもしろくなるかもしれないよ」

 もし、園長先生も雨ふりが好きだったら、うんどう会や遠足はちゅうしにならないはずです。中止になるのは雨のせいではなく、それをきらいな園長先生のせいなのです。

 ・・・・・・・・雨ふりをワルモノにしたらかわいそう。

 ひねくれゆうちゃんはいつもそう思うのです。              (つづく)

  



2010年1月11日月曜日

ユニクロ兄さん!

 息子と渋谷の百貨店。エレベーターの中で、息子と同じダウンジャケットを着た中学2年生くらいの少年を発見。「おお、ユニクロ兄さんがいるぞ」と息子に耳打ち。昨年の秋、日吉のユニクロで妻が購入したもの。
 息子、なんとなく嬉しそう。
 「友達にも、同じの着ている子が何人かいるよ」とのこと。ユニクロ、儲かるわけだ。

 その後、近所の商店街を歩いていると、、これまた息子がダウンの下に来ているものと全く同じユニクロ製のセーターを着ているおじさん発見。「お、今度はユニクロ父さんじゃないか。お前、ダウン脱いで、ユニクロ父さん! 会いたかったよお! なんて声かけてみたら」と僕。
 息子、大ウケ。

 僕の子供の頃は、母親にバーゲンで買ってもらった、つまり明らかにお得ですよ、という洋服を着せられ、それと同じものを着た友達に出会ってしまったら、お互い赤面、「これもう学校に来ていくのいやだよ」なんて文句を言ったものだが。

 たぶん、胸に"UNIQLO"なんてロゴが入っていたらだめなんだろうな。ブランド品を持つのとは、正反対。
 
 話題の海外の低価格ブランド、H&M、ZARA、TOPSHOP、あと、フォーエバー21か、そういうのともなんかちょっと違う。

 ノンブランドというブランドを生活に根付かした、というか標準化に成功したというか...。新商品を次々と出し続けることも大事なんでしょうね。結局、企画力の勝負か。
 

2009年12月27日日曜日

賞状とハート

 昨日の朝の食卓、愚息が「そうだ、あれどうしたっけ!」と突然叫ぶ。
 「何のことだ」「あれだよ、ボクの賞状、昨日もらってきたやつ」
 「なにソレ、そんなこと昨日なにも言ってなかったじゃないか」妻と僕と同時にこたえる。

 夏休みの研究発表が評価されたとのことで、市の教育委員会のナントカカントカという部門で表彰されたという。その賞状を冬休み前の朝会で校長先生から手渡されたとのこと。

 「お前、そういうことなんで早く言わないんだ、それで賞状まで無くなっちゃたって、いったい何やってんの?」
 「だって、帰ってきたとき誰もいなかったし、あとはそのこと忘れちゃって、、、ああ、どこにやっちゃったんだろ?」頭をかかえる愚息。

 立派な賞状をもらえてとても嬉しかったという。でも、ソレをどこかに置き忘れてしまったらしい。
 「ほんと、お前はアホだなあ」と僕。うなだれる愚息。

 本来なら、"よかったねえ" "うん、頑張ってよかった"みたいな、にこやかな会話が飛び交うあたたかなクリスマスの夕餉、という時間を持てたはずなのに、結局、逆に叱られている愚息。怒っているこちらも、とてもむなしい。

 そんな大事なもの普通忘れるかねえ、と思ってみて我が身を振り返れば、思い返されること、それは小学一年生の登校初日の話。
 大きなランドセルに真新しい国語算数理科社会、すべての科目の教科書・ノートを詰め込んで、母に「がんばってね」かなんか言われつつ学校へ。
 午後、元気よく帰宅。母に「どうだった学校? 楽しかった?」と聞かれ、ひとこと「普通」とこたえる僕(わが愚息と一緒)。
 そして、ランドセルの中を見て母親がびっくり。「あらやだ、中身がからっぽじゃない」

 往きは中身ぎっしり、帰りはからっぽのランドセルを背負って帰ってきた息子に「あんた、教科書とか筆箱は?」と問いただす。息子は、ぼんやり「あ、忘れた」 ...
 それを聞くや否やランドセルを手に、全速力で学校へ向かって走り出していった母親。放課後の1年2組の教室。ぽつりと担任の先生が教壇に座っていた。
 「ああ、〇〇君のお母さん。いらっしゃると思っていましたよ。〇〇君、教科書全部机の中に入れたまま帰っちゃって、私も長い間教師やってますけれど、こんなの初めて。うふふ」 

 教科書類が再び詰め込まれたピカピカのランドセルをぶら下げて帰ってきた母に、当然こっぴどく叱られた。    
 「顔から火が出たわよ。お母さん、今までこれほど恥ずかしい思いをしたことなかったんだから」その後、僕が忘れ物をするたびに、母はこの逸話を披露した。

 この親にして、この子ありなのだ。納得するしかない。

 下駄箱のところに置き忘れたのかも知れない、と半泣きの息子。冬休み中ではあったけれど、運よく当直の先生に連絡がついて、さっそく母子で学校へ。

 賞状は、愚息の机の中に保管されておりました。
 二日がかりで、めでたく我が家に到着。よかった、よかった。

 賞状を手にして、息子がイの一番に言ったこと。「ねえお父さん、ここよく見て」と、文章を囲んでいる飾り罫、不死鳥みたいな鳥の尾の模様の部分を示す。
 「ここにハートの文字が隠されているんだよ」
 よく見ると確かに、絵の中に肉眼では分からぬほどの大きさで、「ハート」と記されている。賞状メーカーの遊び心か。

 「よく見つけたな」
 「〇〇君のお兄ちゃんが知ってたんだ。」
 「これはすごいぞ、息子。大発見なのだ」
 「ね、すごいでしょ。ああ賞状見つかってよかった」

 バカボンとバカボンのパパの会話みたいになってしまっていたのだが、これでいいのだ。

 真ん中の花の隣に、よく見ると「ハート」の文字が。2箇所発見。さらに花の中にハートマークの隠れキャラもありました。

2009年12月24日木曜日

レピドールのクリスマスケーキ


 クリスマスイブ。

 ケーキは毎年・田園調布「レピドール」 の17センチのデコレーション。
 家族全員ここのクリスマスケーキ、大好き。

ホワイトチョコレートなどで作られたデコレーションも美味。こちらは愚息が全部たいらげる。


 「レピドール」は2階に喫茶ルームも併設、絵本作家の葉祥明さんがよく打ち合わせ場所として指定される。
午後の喫茶ルームは、近隣のおば様方で溢れかえっていて、女性客度97パーセント。僕などは異分子である。

 こういう場所は慣れていないので、背中がむずむずしてしまう。紅茶なぞを啜りながら葉さんを待つ間、資料に目を通してもなかなか集中できず、ついきょろきょろと周りを盗み見みして、怪し度を高めたりしていた。
 赤羽の居酒屋なら大丈夫なのだけれど。

 もう7~8年になるだろうか。ちょうどクリスマス前の時期、レジのところでケーキを予約する人が後を絶たない状況を目にした。会社帰りの男性も多く、今年もお願いね、という感じで名前・電話番号などを告げていた。
 それでは、ということで僕もなんとなく一番小さいのを予約したのが最初。
 クリスマスイブの夜に、お店でケーキを受け取りぶら下げて家路に着くのは、少し照れくさくもあり、また「父ちゃん」という感じで、嬉しくもある。
 とにかくスポンジケーキ、クリームともに絶妙のコンビネーション。妻、一口食べて「おーいしーい!」と、毎年倒れそうになる。倒れそうになりながらも、8カウントで復活し、一人で2分の1をぺろり。

 
Posted by Picasa

2009年12月21日月曜日

加藤仁さんが天国へいってしまった

  ノンフィクション作家の加藤仁さんが、12月18日に亡くなった。

 「僕がモノ書いているうちはさあ、七十になっても八十になっても、こうやって月一回ぐらいは一緒に飲もうよ、つきあえよ」と言ってくれてた仁さんが。

  早すぎるよ、最後に飲んだの8月だったじゃないですか。

  次の作品を楽しみにしていたのに。恩返ししなければならないことがたくさんあったのに。早すぎますよ。

 「オイ、君はそんな顔するんじゃない」といういつもの言葉が聞こえてきた。
 「そんな顔になります。加藤さん、やっぱり早すぎる」

 葬儀の帰り、車窓からこの冬一番の美しい富士山の夕景を見る。