2008年4月30日水曜日

今月読んだ本

POPEYE物語 椎根 和 新潮社 本体1500円

 "シティ・ボーイのためのライフスタイル・マガジン”ポパイには、僕も大変影響を受けました.

 全盛期には実売数40万部を越え(何と返品率4・8%という号もあったという)この種の雑誌(隔週月2回発行)としては驚異的な売れ行きを示した。本書は、その発刊前夜から、その人気のピークに達するまでの編集者たちの熱い舞台裏を紹介している。

創刊号も保管してます。表2対抗扉に"Men's an an" とあり。


 本書によると、ポパイの前身は「メイド・イン・USA・カタログ」で、これは (今は亡き)『週刊読売・別冊』として発行されたとのこと。講談社かあるいは平凡出版から出されたはずだと勝手に思っていたが、ちょっと意外なこの事実とその経緯が冒頭に語られていて、大変興味深く読んだ。

 その「メイド・イン~」を当時かなりすかした(今ならイケてる? これも古いか)クラスメイトが読んでいるのを傍らで眺めていた。そして、彼がダウン・ベストなるものを着ているのを目撃し、仰天した記憶がある。「何で町なかで救命胴衣を着てるんだ!!」
 
  「ポパイ」は、”何が流行っているか”ではなくて、「いいかい、君たち、都会で楽しく生きいていくためにはこういった遊びをしなくてはいけないし、こんなものを着なければいけないのだよ。」という情報を先輩口調で教えてくれる雑誌であった。

 かっこいい先輩が教えてくれることだから、と僕らはそれを素直に受けとめた。ラコステのポロシャツは"アイゾット"でなければいけなかったし、少し前まで救命胴衣の友人に驚いていたくせに、デッキシューズを履いて通学をするようになった。当然、靴下着用は厳禁。

 「~と、あえて言ってしまうのだ」とか「こんなものほしかった」「これ、常識」などのポパイ的用語を使われてしまうと、僕らはああそうですかと従順にならずにはいられなかったのだ。その背景に、体育会的、というかかぎりなく体育会に近いスキー同好会のような雰囲気の熱血編集部の存在があったことがこの本を読んでよく理解できた。

 特集記事だけでなく、僕が特に楽しみにしていたのは、パズルと書評。毎号夢中になって迷路パズルを解いて、読者感想文をつけてプレゼント応募、ブラウン社製のトラベルウォッチなどいくつかのおしゃれ小物をゲットした思い出がある。

 「なぞの複数怪人フリートのMad Revew」と名づけられた書評欄には、いったいどういう基準で選んでいるの? と疑問を感じるほどの幅広い分野の書籍が紹介されていた。掲載された本を、少なくとも月に1冊は購入したと思う。

 このページで、村上春樹「風の歌を聴け」や椎名誠の「さらば国分寺書店のおばば」と出会い、二人の大ファンとなった。MとSという二人の"怪人"が対話形式で本の紹介をするのだが、これも当時、僕は一人の人間が二役で執筆をしているのかと思っていた。しかし、本書を読んで、はじめてタイトルどおり二人で書評していたことを知った。(そのうち一人の評者は本書の執筆者、椎根氏とのこと)

 家族でノースショアに初めて行ったときも、20年ほど前の「ポパイ」を引っ張り出しておさらいをした。ハレイワの町は、紹介されたときのまんま。ふた昔前「ポパイ」を読んであこがれていたその町で、息子と記事にあった「マツモトストア」のレインボー・シェイブを食べたときには涙がでそうになりました。

 まだバブルの頃、本書に登場する何人かの名物編集者(ライター)の方とお会いする機会があった。その頃は、活動の場を『ブルータス』誌に移していたが、やはり若いもんにやさしくて、モノ知りで、そして常識もある、すてきな方々でありました。女性誌の編集者たちにも「ブルータスのお兄さんたちってすごく面白い」ともてておりました。                                           なぜか、1942~43年前後生まれの人ってこういうすてきな感じの人が多い気がします。

 ずいぶん昔、なにかの集まりが明治通り沿い宮下公園のわきにあった名店「渋谷の幸ちゃん」で開かれた後、本書に名前が何度か登場する名ライターの方と、店から渋谷駅まで同道する機会があった。僕が『ポパイ』の大ファンで、編集部にものすごく憧れを抱いていた主旨のことを告げると、ぽつりと「うーん、でも、今はあのときのパワーはないよねえ」と少し寂しそうに、つぶやくようにおっしゃった。

 この本を読んで、改めてそのときのことを思い出した。本書で紹介されている"神話的"期間は丸5年、 若者の世界を変えるほどの媒体を作り上げるために、信じられないくらいの瞬発力と集中力が必要だったはず。5年間というのはそういう意味では驚くべき長さだったのではないか、というのが本書を読んでの最終的な感想。当時の雑誌クリエイターたちに脱帽です。

「この風にトライ」 上岡伸雄 集英社 本体1600円

  これは珍しい、いまどきのラグビーを題材にした少年向け小説。迷わず購入。元全日本代表候補だったラグビー選手が、人生を見つめ直し、小学校教師となって、いじめ、親との確執、お受験などの問題に向き合っていく。 

 ストーリーのところどころに、作者(本職は、小説家ではなくラグビー大好きの翻訳家で大学教授)のラグビーに対する熱い思い、教育に対する好ましい理念が垣間見えてくる。とにかく子どもにとってもわかりやすく楽しく読める本。

 教師が、生徒一人ひとりをきちんと見つめ、宮沢賢治を暗誦し、ラグビーを真剣にやれば大丈夫! というシンプルさがよい。クラスの父兄にたった一人だけラグビー好きがいる、というのもなんだか現実的。少年ドラマにして欲しいなあ。もちろん主役は、大八木淳史で。 

 「釧路捕鯨史」 釧路市総務部地域資料室 1600円 釧路市役所 

 釧路出張の折に購入。かつて日本一の捕鯨基地だった釧路、調査捕鯨の再開を機会にあの夢よもう一度、ということで編纂された資料集。

 経済的に疲弊している釧路の町を再び鯨で盛り上げようとの目的で出版されているので、捕鯨の歴史と鯨の生態が詳解されているというよりは、日本水産と極洋漁業の2大水産会社が捕獲量を競い合い、市の経済が活況を呈していた時を懐かしむことに多くのページが割かれている。

  それでも北ヨーロッパでは積極的な「捕鯨」はノルウェイ人でなく、バスク人によって9世紀頃から始められたことや、それよりはるか先にアイヌ人が紀元前7000年ごろから「捕鯨」をしていたことなどが本書から知ることができる。また、「調査捕鯨」により、ミンク鯨の第1胃袋を切り開き、大量のスルメイカや秋刀魚が摂餌されていることを確認、イカと秋刀魚の不漁はミンク鯨の増加に起因している、との記述もあり、僕の中ではっきりしなかった「調査捕鯨」の持つ意味も少し理解できた。

 一方で「ナガスクジラは、その体型の美しさからクジラのミス・ワールドといわれている」というチャーミングな記述もある。このミスワールド、現在はデンマーク・グリーンランドの先住民のみが年間19頭の捕鯨枠を持っているとのこと。

 いずれにしても、2002年から釧路港を基地に捕鯨調査が始められ、市場に鯨肉が並ぶようになったという。

 町おこしのため、「鯨家庭料理レシピコンクール」が開催され、写真で紹介されている。「鯨と食文化を語る市民の夕べ」が開かれ猪瀬直樹氏が食文化をテーマに基調講演をおこなったとの報告も。講演会の後に「くじらそば」「ローストクジラ」「クジラカツカレー」がふるまわれたというが、これは、うーむ。でも、地方の書店ならでは、こういった書籍に出会えるのは本当に楽しい。

「日本の生き物図鑑」 石戸 忠・今泉忠明 監修 2000円 講談社

 野原で見かける草花、鳥、虫の類のことで息子に結果的にうそを教えてしまうことが多い。この図鑑を読んで反省しきり。常識的な、ムクドリとヒヨドリさえトリ違えておりました。息子よ許せ。勉強し直しです。

2008年4月27日日曜日

肉離れでびっくりしたこと

 ふくらはぎの肉離れであります。

 帯広~釧路、長野と連日の出張が昨日終了。疲れはまったく感じていなかったのだけれど、やはり加齢のせいか。公園で息子を相手にラグビー・ボールで遊んでいる最中に、やってしまいました。
 軽くランパス、全力疾走で追いかけっこをした後、左足でボールをけった瞬間。軸足の右足ふくらはぎ内側にものすごい衝撃が走る。

 一瞬、野球のボールが勢いよくどこからか飛んできて僕の足に当たったのだと思った。周りを見渡してもボールは転がっていない。ふくらはぎに激痛が広がっていく。痛さで声が出ず、なんとか息子を手招きする。不審げに僕のもとにやってきた息子に「今、お父さんの足にボールかなんかぶつからなかった?」と聞いたが、「何もぶつかってないよ」という。
 「まずい」と思う。立っているのがやっと。子どもの手を借りて何とか家に戻る。愚息はとても心配そうではあるが、「大丈夫?もっと体重かけてもいいよ」と僕に肩を貸しているのがちょっと得意げでもあるみたい。この逆のことはよくあったから。でも、たよりになる息子、ありがとう。

 家に帰りすぐに妻にアイシングをしてもらう。痛みはどんどん広がっていく。ふくらはぎの一部の筋肉に負担がかかると、激痛が走る。
 妻が電話をかけてくれたが、日曜日なので何件かある近所の接骨医はすべて休診。
 スポーツ選手のリハビリでもわりに有名な、近くの関東労災病院の休日診療を受けることに。妻と息子も付き添ってくれた。

 当直の若い医師が僕を診てくれた。
 「私は専門医ではありませんが、骨には異常はないようです。急な手術も必要なさそうです」事務的、必要最低限の診察。「それくらいは自分でもわかります。でも、もう少し患部を触ってくれたりして詳しく、、、」と思ったけれど、ありがとうございました、と鎮痛剤(ロキソニン)と湿布薬を処方してもらう。

 関東労災病院は、歴史的にはかなり古い病院だけれど、昨年リニュアル工事が終了、とても近代的な施設に生まれ変わった。
 昔は暗い外来病棟の廊下の天井をどういう仕組みか、カルテやら処方箋やらが袋に入れられロープウェイのように行き交う不思議な病院であった。
 今では、コンビニやこぎれいなレストランも完備、ちょっとしたホテルのよう。会計のシステムも渡された診察券をATM機のようなものに入れると金額が示され、そこに現金を投入するかカードで支払えばよいという非常に便利なシステムに。

 「一応ロキソニンを出してもらったけど、もし痛みが明日もひどいようだったら専門医に見てもらえって」と妻に報告。
 妻は先刻から、「ああ、それにしても驚いた」と目を丸くしている。息子も「そうだねえ」と答える。僕も「でも、明日は何とか会社にいけそうだよ」と返事をする。
 会計を済ませ、少し離れた場所にある薬局に行ってからも妻は「びっくりしたわぁ、本当にびっくりした」と言い続けている。息子も「僕もびっくりした」と同調する。僕の中で小さな疑いの種が芽生え始める。

 すべての手続きが終了し、正門玄関を後にしたとき病院を振り返り再び「ああ、びっくりしたね」と言う妻の言葉を聞いて、僕の彼女に対する疑惑は確信に変わった。
 「びっくりはしたけれど、大したことなさそうでよかったね」と言いかけた息子の言葉を途中で制して僕は痛みをこらえ真実を明らかにした。
 「そうではないんだ、お前(息子)のびっくりとお母さんのびっくりはびっくりが違うんだ」
 「お前のお母さんは、病院に対してびっくりしているのだよ」
 「え?お父さんのケガに驚いてるんでしょ」
 「いやちがう、○○○(妻の名)は、そんなことより労災病院があまりに美しくなっているもんでびっくり しているに違いない」
 父と母の顔を不安げに交互に見つめる愚息。
 「誰だってびっくりするわよ。こんなに立派にきれいになっちゃってるなんて、ホント、知らなかった。コンビニとかすごくきれいじゃない。見違えちゃった。アー、びっくりしたねー」と愚妻。まだ言ってる。
 「な?」と僕。「へーえ」と息子。

 この瞬間、愚息も人として生きていく意味で大切な現実を学んだことであろう。
 これも良しとしよう。
 筋肉だけでなく、僕の心も少し傷ついたけれど。

2008年4月26日土曜日

長野・聖火リレーのその日、白木屋頑張る

 今日は、長野でエッセイスト・しえさんの出版記念イベント。                                   
 しえさんは、「エースの錠」でおなじみ俳優の宍戸錠さんのお嬢さん。(なんか韻踏んでいる) 自身の子宮がんを克服し、今は同じ病気を経験した女性の悩みを語り合う場づくりや、子宮がん検診の大切さを訴える活動をしている。
 
 昨年末、壮絶な体験を克明に記録した闘病記を出版。その関連イベントが、なんと世界中で話題になっている北京五輪聖火リレーの日とぶつかってしまったのだ。 3月初旬に、このスケジュールを決めたときにはまったく話題に上らず、意識の外にあった聖火リレーではあったが、アテネの採火式から始まって、パリやサンフランシスコなど各国のリレーが進むごとに人々の関心は日ごと膨らみ、「日本でも何か起きるかもしれない」とマスコミが固唾を呑んで 長野を見守っている。

 善光寺からスタートするはずだったリレーも僧侶の判断でキャンセル。まあ妥当な決定。リレー終了後、午後2時からおこなわれる予定の記念セレモニーも中止された。これは、僕たちにとっては、ホッとする出来事。しえさんのトーク・イベントは3時からおこなわれる予定だったから。何かそこで事件が起きたら、トークショウに参加の方々も気が気でない。

 実は、しえさんと長野をご一緒するのはこれで2回目。10年前、しえさんの弟、宍戸"ファイト1発"開さんが、パラリンピックの聖火ランナーに指名され、パラリンピック関連本を企画していた僕も併走。開さんのマネジャーでもあるしえさんも一緒だった。今日のような雨の中を共に走った仲なのだ。因縁と言えば因縁。

 しえさんとの待ち合わせは東京駅12時少し前だったので、10時30分ごろまで自宅で聖火リレーをテレビでチェック。やっぱり長野駅前は大変なことになっていた。僕らが、数時間後にイベントをおこなうビルの前で、欽ちゃんがペットボトルを投げつけられる。

 息子に「これから、お父さんはあそこに行くんだけどねえ」と言うと「えー? わざわざ見に行くの?」とあきれた様子。確かに、僕は台風になると川原へ増水の様子などを見に行きたくなるタイプ、早く言えば野次馬なのであるけど(大きな台風のときには、必ずこういう人が各地に一人や二人いて、ひどい目に遭っている)、今日は違う。「そうじゃない、仕事だよ」と答えると、興味なさそうに「フーン」。

 「あっ、愛ちゃんの前に誰か飛び出してきた!!」 妻が興奮する。卓球の福原愛選手がトーチを掲げて走っているときに、これまで海外のニュース映像で目にしたものと同様の光景が目に入ってきた。9時過ぎくらい。この時の映像は、僕が家を出る10時30分ごろまで、これでもかと何度も何度も繰り返し放送された。 

 しえさんと東京駅で予定通りの時間にお会いする。「凄いときに、ぶつかってしまいましたね。」と苦笑。表参道駅のようにおしゃれになった駅地下で、昼の弁当を選ぶ。

 長野駅には、2時過ぎに到着。聖火リレーがちょうど終了するころ。いつもはのんびりしたホームに今日は、何人もの警察官が警備にあたっている。
 改札に向かうと、今度は報道陣が多数。「我々を押さえに来たのかな」と、軽い冗談を言いながらも、ちょっと緊張。長野はまだ異様な雰囲気に包まれている感じ。

長野新幹線改札前の報道陣。僕たちの出迎えではなかった

 駅前のあちこちに、真紅の中国国旗をもった集団と赤と青のチベット国旗を手にした集団を見かける。どちらも手持ち無沙汰という感じで、うろうろしている。駅構内は少し緊迫していたけれど、外に出てみればやっぱり「祭りのあと」感は否めない。

これからどうする?という感じだった中国の応援団

 一番、張り切っていたのは、まだ午後2時すぎなのに「開店してますよ!」とビラを配り、プラカードを掲げシュプレヒコール、ではなくPRする居酒屋・白木屋の店員。

 そんな中、しえさんのトーク・イベントは無事に始まった。                                     家族の闘病体験の辛さを熱く語る人、今日の話をもとに癌と戦う友人を勇気づけたいと感動する人、「私も癌だったけどこんなに元気よ」と逆にしえさんを励ます人、さまざまな参加者に囲まれトーク・イベントは終了。こちらのほうは、大成功。平安堂の長崎さん、ありがとうございました。しえさんも本当にお疲れ様でした。

終始涙を流されている方も。感動的なトークショウとなりました(長野・平安堂で)

 長野サンルートホテル内「りんせん」で軽く打ち上げ。午後7時過ぎに駅へ。何事もなかったような静けさ。あの騒ぎは、いったいなんだったのだろう、と思う。

2008年4月25日金曜日

釧路といえば「OK牧場」なのだ

  帯広・最大規模の書店、駅前の長崎屋の中にある「喜久屋書店・ザ本屋さん」の前野店長にご挨拶。 

 前野店長は、もともとは関西の人。神戸出身、震災の際は、自宅も相当の被害にあったとのこと。 
転勤で数年前に小樽勤務となり、ただちに北海道の自然の魅力、特にフライフィッシングにとりつかれてしまったと話す。

 帯広に着任してちょうど1年、ますますその熱は高まる一方のよう。フィッシング関係の棚は、店長自ら担当しているという。
 これからの季節は朝4時に車を飛ばしポイントまで行って、釣りを楽しんだ後、10時の開店前には出社できそう、と目を輝かせる。仕事と趣味を生活の中で、しっかりと折り合いをつけて充実させている人に出会うと、とても元気になる。前野店長、ぜひ頑張ってください。

良いお話を聞かせていただきました。帯広・喜久屋の前野店長

 根室本線で、釧路へ移動。昼食は、駅弁。同行の少しメタボが気になるS君は、豚丼弁当を食べている。「帯広へ着たらやっぱり、豚丼っすよ」とのこと。僕はこの名物を知らなかった。全国区で有名らしいのだが。
 僕は、ワゴン販売のお姉さんに、もうこれしか残っていませんと言われた「桜マスの押し寿司」。望むところ。北海道近海で水揚げされたという"春をよぶ魚"桜マスは、とても肉厚で脂がのっていた。好物の富山のマス寿司とはまた違う豪快な味。とても美味しかった。

 北海道を鉄道で移動していると「旅をしているんだなあ俺は」という気分になる。もの憂げに眺める車窓の向こう側には、荒々しい北の海あり、牧場あり、湿原ありで飽きることがない。

と、たずねられても、すみません、知りませんでした。釧路の一つ手前の停車駅で。

 2時間ほどで、釧路へ到着。
 比較的近くの根釧平野(風蓮湖)へは、10年ほど前にシマフクロウに関する取材で訪れていたが、釧路駅自体を訪れるのは1979年以来。指を折ってみたら何と29年ぶり。駅前の様子は、当時とほとんど変わっていない気がする。

 思い出されるのは、その頃にはまだ珍しかった焼肉食べ放題の「OK牧場」というお店で食事をしたこと。肉も魚介類も、デザートもめちゃくちゃ美味しかった。おなかいっぱい死ぬほど食べてたしか1000円程度、時間制限もなかったような気がする。湿原、ラムサール条約、タンチョウヅルというのが一般的な釧路のイメージだが、僕の中では、ガッツ石松じゃないけれど「OK牧場」。

 学生時代に、鶴居村の「ホテルたいと」を経営する写真家の方に連れられ、一緒に雪穴の中から首を出して長時間待ち続け、丹頂たちがねぐらに帰っていく様子を観察した素晴らしい経験を持つ妻からすれば「釧路の思い出が、焼肉食べ放題って、ちょっと、、、ねえ」となるのは当然のことなのだが、せんないこと、とにかく僕にとって釧路といえば「OK牧場」!

 そして書店は、と問われればまずは、「コーチャンフォー」となるでしょう。ちょっとエスニック料理みたいな名前で、北海道以外の人にはなじみがないと思うけれど、釧路や札幌の人にとっては大型書店の代名詞。
 
 駅からの道のり、日本最後の坑内屈炭鉱「釧路炭鉱」のボタ山をながめつつ、コーチャンフォー釧路店に到着。町中は人が少なかったけれど、店の中は平日の昼下がりにもかかわらず、多くのお客さんで賑わっていた。
 マネジャーの安江さんに挨拶。これまた誠実そうなお人柄。よろしくよろしくと、PRする僕たちの話をじっくり聞いていただいた。

 このお店、文具の品揃えも充実していて、おしゃれな鉛筆削り(突っ込んだ鉛筆をぐりぐり回すタイプ)を発見。ドイツDUX社製。宣伝POPの「ドイツでは今でも鉛筆は手で削るのがあたりまえ」というコピーが気に入った。(我が家にも、電動式鉛筆削りはありません)底の部分にMade inWest Germanyと表示されていた。息子のお土産に、と購入。

釧路・コーチャンフォーの安江マネジャー。とてもやさしい口調が印象的。

「OK牧場」があったところは今どうなっているのだろうか、などと考えたが飛行機の時間の都合で、街を歩くこともなく、空港へ。

 あわただしくも、充実した二日間だったなあと、釧路空港で最近の北海道土産の定番、「ジャガぽっくる」を家族に購入、機上の人となる。

いくつになっても、飛行機は窓側が好き。何時間空を眺めていてもあきません。

 帰宅後、荷を解く前に妻から「今日、仕事関係の人からもらったのよ」と「ジャガぽっくる」を差し出され、倒れそうになる。

2008年4月24日木曜日

帯広で、僕ら幸せなんでないかい、と思う

 気温21度の東京から7度の帯広へ。

飛行機を降りると息が白い。昨日までは、20度近くあり、東京とあまり変わらなかったとのこと。まあ、このほうが遠い土地に出張に来たのだなあと言う気分になり身が引き締まる。どこまでも続く直線の道路をバスで進み40分ほどで市内へ。

 お昼は、商店街にある『みすず』というラーメン屋さん。唐辛子がよく効いた「みすず醤油ラーメン」は雪の降る中で食べたいホットな味。

 『みすず』の「こだわりみすず醤油ラーメン」

 この地には道東最大級の喜久屋書店・ザ本屋さんがある。さらに宮脇書店、くまざわ書店といった全国チェーンのお店もあり人口に比較して本好きの多い町、といえるかも知れない。よーく考えてみたら、この街に滞在するのは初めてのことであった。
 先に北海道入りしていたs君と、この日はいくつかの書店を訪ねてわが社の出版物をアピール。皆さんじっくりとこちらのお話を聞いてくださった。"誠実・真面目"という言葉でくくれてしまいそうなご担当者・店長さんばかりでうれしい。


帯広の書店の皆様、どうもありがとうございました!

 夕食は、ホテル近くの『十勝・北の屋台』。やきとり、ラーメン、からイタリアンや韓国料理まで、100坪ほどのスペースにこぎれいな屋台が20店ほど並んでいる。生ハムとチーズの店もある。うーむ、悩ましい。が、やはりここは北海道、海の幸っしょ、てなわけで表の看板に「新鮮な魚介類」とあった『こころ』に入店。

       『海鮮居酒屋・こころ』の女将の木村さん、後期高齢者医療制度について話し合う
 ホタテがうまい!つぶ貝がうまい!いもがうまい!なんでもうまい。そして安い!!カウンターの醍醐味は、常連のお客さんとの交流。素敵な地元のご夫婦が二組。楽しく会話をさせていただきました。

刺身は、山わさびで食すのである。ししゃもにイカ。じゃがバタ!と頼んだら「いもバタね」と返された。塩辛と合わせて食べて幸せ。

 料理よし、お客よし、値段よし、本好き多し、帯広に来て、僕らとっても幸せなんでないかい、とつぶやいてホテルに戻る。
 あ、それと『北の屋台』は共同トイレが清潔で、きれいなのでびっくり。トイレよしっ!

2008年4月22日火曜日

素材への気配り、客への気配りのお店

 紀伊国屋書店における企画の打ち合わせ、恵比寿の『四季おりおり』で。
 このお店は、その名のとおり、旬の素材を使ったオリジナルの料理をとても低価格で提供してくれる。素材の魅力を十分いかした美味しい料理からはお店の良心が伝わってくるのです。 
 珍しい郷土料理のメニューもこの店の魅力。とくに、客のほとんどんがオーダーする八戸・せんべい汁。僕はこの店で始めていただいたのだが、絶品。南部せんべいに出汁のよく効いたつゆがほどよくしみこみ、経験したことのない食感と味わいを醸し出す。
 いつもにこにこ、客への気配りがゆきとどく(特に美しい女性に)店長の世羅さんと、寡黙に包丁を握る2枚目の板長、きびきびと動き回る若い店員さん、スタッフそれぞれのキャラクターがこのお店の魅力を倍増させている。

  

       店長の世羅さんは名門・桐蔭学園ラグビー部出身、あのJKとも知り合いらしい       
                           

                  

                     真摯な姿勢が料理にもあらわれる、板長 

人間味あふれる空間で打ち合わせをしていると、人にやさしいアイデアが湧いてくる、ような気がした恵比寿の夜でありました。                  

                     

                   お手洗いに活けられたお花に、お店のセンスがあらわれます                                                                                                                                                                                

2008年4月20日日曜日

叱るパワー

 公園で中学生を注意する。

 中学生5~6人が、軟球で思い切りノックをしていた。日曜日の午後、我が家近くの公園は、いろいろな年代の親子が遊びに来る。当然野球は禁止。 
 ものすごいスピードで中学生のノックしたボールが、ラグビーのランパスをしていたわれわれの間を横切り、そして2歳くらいの女の子のすぐわきをかすめて行った。一歩間違えば大怪我になるところ。中学生たち自身も一瞬ドキッとしたようだった。

 当然、女の子の父親が中学生に苦情を言うと思っていたのだが「こっちおいで」と娘に話しかけるだけ。
最近の日本の親父は、全般的に叱るパワーに欠けている。中学生は、へらへら笑いながらまた同じようにノックを始めようとした。

 切れた。一番近くにいる中学生に「おい、危ないだろ! ああいう小さな子もいるんだから、考えて遊べよ」と強く言う。いわれた中学生はあいまいな返事をして、仲間の元へと戻り「まずいよ」という感じで今度はバント練習のようなことを始める。別の仲間が、照れ隠しなのか「ぶつかってたら死んでたよな」などといっている。それを聞き、再び切れそうになるが我慢。

 ときどき、駅や公園で悪ふざけをしている子どもを叱る。妻は、顔を覚えられていて後から息子が一人のときに仕返しされるかもしれないからやめろと言う。僕だって一応怒って効き目のある人間と、そうでない者の見分けはできるつもり。もちろん自分の息子も人前で叱る。(これも妻は嫌がる)息子はと言うと「パパ、あのとき、絶対中学生たちに怒ると思ったよ」と平然。

 よしよしお前もきちんとアホガキを叱ることのできる親父になれそうだ。これで日本も少しは安泰だ。
 スイミング、1500メートル30分22秒。
 

2008年4月17日木曜日

リレーの選手

 愚息がリレーの選手に選ばれたと言う。「クラスでは一番速かったんだって」と嬉しそうに妻が報告。
 「おお、やったな」「まあね」と愚息はあまり興味なさそうに答える。ホントは嬉しいくせに。
 やあ、めでたいめでたい、こういうときのビールが一番うまい。


 で、50メートル何秒くらいなんだ、とかの話になり、なんだそれなら俺の5年生のときの方が速かったな、などと親父は言い出す。 さらに、「お父さんは、小学校1年から中学3年生まで9年間徒競走は負け知らずでに、それで、、、、」と言ったところで、妻から「今は○○の話をしてるの。あなたの話など誰も聞いてないし、どうでもいい。」とさえぎられる。
 「いや、いや、それでね、走り幅跳びもお父さんの場合は、、、」、などと言いつつ2杯目のビールをグラスに注いでいる間に妻はキッチンへ、愚息もテーブルを離れポケモンカードかなんかのほうに傾注している。

 ぶつぶつぶつ、、、、、それでもこういうときのビールは美味しいのだ。

2008年4月12日土曜日

日向あき子先生のこと

 今日は、版画家のbebeさんと日向あきこ先生の墓参。

 日向あきこ先生はわが国の女性美術評論家の草分け。詩人として創作活動を開始し、60年代後半から評論活動を始める。「ポップ文化論」「ニューエロティシズム宣言」など彼女の著作の多くは、今でも現代アートを語る上で色褪せることなく多くの人々に影響を与えている。

 日向先生と初めてお会いしたのは、1990年ごろ。人形作家・土井典さんの展覧会で紹介された。この世界にまるで無知な僕は、日向先生の存在をそれまで知らなかった。会場で立ち話をしていると、あのアラーキー氏がひょいと傍らに擦り寄ってきて「こりゃ、どーもどーも、ヒューガ先生、お元気ですか?」と平身低頭。「あら、久しぶり」と表情を変えずに応じる先生。「なんだか、すごい先生らしい」と幼稚に思う。正直を言ってしまうと、その時はアラキノブグリエ氏に遭遇したことのほうが、僕にとって実は興奮する出来事であった。

 そして「アンディ・ウォーホルとかキース・へリングは、どんなところが素晴らしいのでしょうか」などと小学生的質問にも、丁寧に答えていただいた。
「あなた、もっと勉強なさい。よかったら家にいらっしゃい」と言われ、図々しく柿生のご自宅に伺った。

 先生の2階建てのご自宅の壁という壁は書籍で埋め尽くされており、階段にも1段おきに書棚に納まりきらない本がならべられていた。床が抜けるほどの、貴重な図録や、カタログレゾネ、美術全集、時代がついてそうな洋書などを眼にして「半分でも古書店に持っていったら1件ぐらい家が建つんじゃないかなあ」と下衆に値踏する僕に、それら貴重な資料を自由に見せてくださった。

 低レベルな僕に、たぶんモノ欲しそうな顔をしていたからだと思うのだけれども、毎月何十通も先生の元に送られてくる美術展の案内状のうち、ご自分が出席できそうにない展覧会の招待状を時々「時間があったらいってきたら」と郵送してくれた。ありがたく頂戴したのだけれど、その後に「どうだった?」と聞かれるのが辛いのだ。「トテモヨカッタデス」としか言えない自分が実に恥ずかしかったから。

  これほどの未熟者ではあったけれど、初めてお会いして7~8年後、結果的に先生の最後の書下ろしとなる作品を担当させていただいた。
 打ち合わせは柿生駅近くのスポーツクラブのカフェルームか、たまに先生のご自宅。書斎にうかがった際は、2時間くらい原稿に関する説明の後「あなた、お好きなんだから飲んでいきなさい」と、にこっと笑って、冷蔵庫から冷えた缶ビールを出してくれた。一度「これは、簡単だけれど案外いけるのよ」とキッチンで、さささっと「ケンミンの焼きビーフン」を炒めてくれた。恐縮して頂いた。とても美味しかった。オノ・ヨーコやケイト・ミレットの評論をおこない、「リブ運動」の論客でもあった天才・日向先生の手料理をごちそうになるなんて、今から思うといくらなんでも恐れ多すぎ。

 ストライプハウスの塚原操さん・版画家の柳澤紀子さんらが中心になって、出版記念会が企画された。発起人は60人を超え、そうそうたる方々が名を連ねた。池田満寿夫、草間弥生、金子国義、田中一光、福田茂男、森村泰昌、横尾忠則、四谷シモン、岡本敏子、、、、これまた恐れ多いことに僕も発起人として末席を汚させて頂いた。この時の案内状は宝物。

 それから5年、2002年6月25日、先生は、知と美と思想の空間ともいえる柿生の自宅・書斎で、執筆中に旅立たれた。その2ヶ月ほど前、社に電話があり「近いうちに、あなたが言っていた○○○さんの美術館に行きましょうよ。日程を決めてね。お子さんは元気?」というやさしい言葉をかけていただいたのが最後の会話となってしまった。

 今日、ようやく初めて先生の眠る場所を訪れた。墓前で手を合わせると「あら、久しぶり」という懐かしい声が聞こえた。「ご無沙汰しております。あいかわず勉強は不足していますが、元気にやっています」と答える僕。
 先生の、返事はない。何も答えてはくれない。けれども、まだ少し桜の花が残る木々の上にひろがる空を見上げたとき、缶ビールを差し出された際のあの笑顔に、やわらかく包まれたような気がした。

2008年4月11日金曜日

備前西市駅の謎

 前回の出張で同行し、新幹線において悲しい体験をした"小さな不幸を呼ぶ男・T君”と岡山。 

 備前西市という駅で待ってます、ということだったのだけれど1時間に一本という宇野線の駅で、電車は発車したばかり。岡山駅からそう遠くなさそうなのでタクシーで備前西市駅に向かう。駅前へ、と行き先を告げると、運転手の反応が微妙。5~6分走ったところで「そろそろ駅だけど、どこに着ければいいんだい?」と問われる。「人と待ち合わせしているので、駅前へ行ってください」と言うと、「駅前ったってねえ」の返事。
 
 とにかく駅のそばと指示して、駅近くまできたらドライバー氏の態度もよく理解できた。「備前西市駅」はぽつんとホームだけが存在する無人駅で、駅舎と言えるようなものが見当たらない、したがって"駅前"と言ってもどこがそれだかよくわからない。改札口の前は普通の道路。「駅前で待ち合わせってお客さん、お連れの方は、いったいどこに立っておるんじゃろねえ」と言いつつ、運転手氏、駅の周りを一周。近くのコンビニの前で”小さな不幸を呼ぶ男T君”を発見。
 
 「ここしか立っていられる場所がなかったんですよ」とT君。 「まさかこんな小さな駅だとは思いませんでしたねえ、ハハハ」となぜかのんきに笑うT君ととりあえず、運転手さんに教わった「すわき後楽・中華そば」で昼食。
 
 醤油ラーメンに「ゲンコツおにぎり」をつける。打ち合わせ前に食べ過ぎてもいけないので「ゲンコツおにぎりって大きいのですか?」と聞くと「いいえ、こんな小さいです」と両手の人差し指と親指で小さな三角を作る店員さん。じゃあいただきますと注文して出てきたちまきのようなゲンコツおにぎりは、わりにボリュームあり。

「すわき」のとんこつスープの醤油ラーメン、ゲンコツおにぎりは梅ぼし入り

 岡山県内最大規模で、3月26日にオープンした書店「啓文社・岡山本店」へ。開店前に店長の太田垣専務と主任の高垣さんが東京の事務所までご挨拶に来ていただいた。

 ”しかけ”大好きと言う太田垣氏は、ネット書店に対するリアル書店ならではの魅力をこのお店で追求していきたいという。期待しております。開店時には、愚息の夢を送ってくれたP社・S社長等多くの出版関係者が訪れたとのこと。こういう個性的な郊外型書店と市街地の既存大手ナショナル書店、両方がいっぺんに元気が出てくれるととっても嬉しいのであります、出版社としては。

 その後、丸図善、紀伊国屋書店にもご挨拶。数年後、備前・岡山は全国でも指折りの読書県になる予感。

 

啓文社の高垣さん、 丸善の木山さん、その他のみなさん、いろいろありがとうございました。

 日帰り、新幹線で20時30分ごろ品川。今回はT君周辺には不幸なできごとおこらず。
 約束していたH出版のK君と品川で落ち合い大井町へ。「大衆酒場・大山」で情報交換会。
 情報といってもお互い大変だねえとチュウハイがぐいぐいと進む展開。結局、ガンバルシカナイネということで一件目終了。
  
 締めは、二坪ぐらいのジャズバー、マイルス・デイビスのポスターの下でジントニック。マイルスが流れる中、なぜかマリュグルー・ミラーをリクエスト。気持ちよくスィングしたのと若い店主の感じがよかったことは覚えているけれども、店名とか何を話したかは記憶なし。

なぜか大井町・東小路でバンザイするH出版K。マイルスの鋭い視線に参るす。

2008年4月7日月曜日

the very best of 少年時代

 息子の春休み終了。今日から5年生。
 
 振り返ってみるといちばん「少年らしい少年時代」は小学4年生、10歳のときだったんじゃないかと思う。the very best of 少年時代。学校や友達のこと家族のこと、、、について、来し方を思い返したり先の推量などもせずに、その出来事を率直に受け止め、幸せな気持ちになったり、わくわくしたり、悲しくなったりしていた日々。これは小学校4年生の特権なのだ。

 実際に、愚息やその同級生を見ていてもそう感じる。イノセント、というのとはちょっと違うけど、彼らのドキドキするときは徹底的にドキドキし、笑うときは大笑い、悲しかったり悔しい時には人前でも涙を流している姿に「おお、少年よ、まったくの少年! 大志はまだ抱かなくてよいぞ」と思うことが少なからずあった。

 しかし、5年生、11歳となれば少年時代も後半期、なんとなく、思春期の鳥羽口っていう感じがする。ダンボールロボットになれ、と言ってもすぐには「いいよ」ていってくれないでしょう、たぶん。親には話したくない悩み事なんかもできるかもしれないね。

 まあ、クラス替えもあったようだし、新しい友達をたくさんつくって後期少年期を元気にすごしてくれたまえ、とビール飲みつつ、腹をさすりながらそんなことを思っているthe very best of 中年であります。 

2008年4月6日日曜日

薬屋と床屋のやたら多い街

 桜満開の日曜日。あたたかな日差しの中ぼんやりと、この街で迎える春はもう15回目になるんだなとしみじみ。

 1回引越しをした。でも、駅からの道のりはほとんど変わっていない。駅から僕の家までの間の1キロちょっとくらい続く商店街は、生活必需品やらなにやらがやたら安く、広い地域から人びとが集まってきて元気が良い。

 足かけ15年における変化。おもちゃ屋がなくなった。(店先でしっぽを振りながらキャンキャンとなく子犬のおもちゃを売っているような店、息子が2歳ぐらいの頃まで、よくここで地団駄踏んでぐずってたなあ)レコード屋が2件すべて閉店、そのかわりTsutaya1件開店。100円ショップが3件できて、1件たたんで現在2店。豆腐屋1件なくなり、残りあと1件。呉服屋2件ともなくなる。

 たくさんあった社宅もどんどんマンションに建て変わった。銀行、生保、石油会社、総合商社、自動車メーカー、、、頭に「大手」がつく企業の社宅がやたらとあったその場所で今は、一つ屋根の下、いろんな職業の家族が暮らしている。
 
 山口瞳の昭和38年の直木賞受賞作「江分利満氏の優雅な生活」はわが町が舞台となっている。
 サントリー(当時は寿屋)の社宅がこの街にあり、出版社から転職した山口瞳も実家の事情で入居、サラリーマン生活を満喫しながらも、やや複雑に社宅生活をおくっていた。「江分利満氏・・・・・」は高度成長時代初期の勤め人の日常をベースに綴られたサラリーマン小説。妻・治子さんの著書によれば、山口瞳の当時の生活と、本書で語られている逸話ははほぼ事実に近いという。

 当時のわが街を山口は次のように描いている。「薬屋と床屋がやたら多い」「ひととおりのものはそろうが、商品の底が浅い」「食べ物屋が概してまずい」大きな声では言えないけれど、これ、50年近くたった今でも変わっていません。小さな声で言います。今でもホントおんなじです。山口瞳はこの後、国立に移り、武蔵野文化人となりました。たぶん、この街のことは、以降あまり思い出さなかったのではないのだろうか。

 実は山口先生が 住んでいたサントリー社宅、今でも同じ場所でその役割を果たしております。我々夫婦がこの街で暮らし始め、妻が初めて僕のスーツを出しに行ったクリーニング店でおしゃべり好きな奥さんに、なぜか「サントリーの社宅の人でしょ」と言われたと聞き、山口ファンの僕としては、なんだか知らないけど嬉しい気持ちになった記憶がある。
 
 山口先生に、「街に歴史がない。だから街のにおいというものがない。街の季節感なんてまるでない」と直木賞受賞作で評されたこの街も、50年という時が刻まれ、今では少しは季節の風が吹いてくるようになった。たぶん、山口先生の頃は植えたばかりで貧相だった桜も今は見事に成長していますよ。
 桜も成長し、季節も感じることができるのだけれども、惜しむらくは、居酒屋「文蔵」とか「ロージナ茶房」みたいな店が、、、、。ぼくが、ステッキで散歩する頃にはできているのかな。

 妻に新しいスイミングキャップを買ってもらう。水泳1500メートル。29分26秒。
 

2008年4月4日金曜日

きっかけは赤ねぎ

 代々木、Vasso niel(ヴァッソ・ニール)で食事。赤ねぎというものを初めて食す。普通の長ネギの白い部分が赤紫になっていて、とても美しい。


              珍しい赤ねぎに初めてご体面  塩焼きに。皮は香ばしく、あまーい中身に舌がとろける。

 あとで調べてみたら、僕の大好きな庄内地方の特産らしい。庄内には、京野菜とはまた一味違う、地味だけれどしっかりと真面目で、そしてしみじみ美味しい作物が多い。「すごいだろ」とひけらかさない姿勢が感じられまことに好ましい。藤沢周平的。

 塩焼きにしていただいたのだが、中の肉が下仁田ネギ以上にとろとろとしていて、そして甘い。今まで食べたねぎでは、スペイン・アンダルシアの山の中にある、イシイタカシさんのアトリエで暖炉で焼いていただいた西洋ねぎに近い感じ。舌が喜んでました。

 喜びすぎて、ワインを暴れ飲み、勢いあまって渋谷で下車、数ヵ月ぶりの「のんべえ横丁」。最後は、なぜか新丸子で焼酎。

Vasso nielのトイレに活けてあったセンスのいいお花、モノクロだとメイプルソープになりそう。あえてペーパーも一緒。

 この日記を見た、わが尊敬する加藤仁先生から「君、毎日楽しそうにやっているようだが、仕事もしっかりやりたまえ」というメール。なるほど、自分でも読み返してみるとそうご進言されるのもむべなるかな。でも、先生、仕事もやっておりますぜ。
 
 先生の言葉の中で僕が一番好きなのは「昼間、悔いのないようしっかりと仕事をやって、そして夜、美味しい酒を飲む。そうでなければ、俺たちただの酔っ払いじゃないか!」というもの。座右の銘です。
 ただのよっぱらないにならぬよう努力です。
 しかし、やはり少々飲みすぎた金曜日ではありました。

2008年4月2日水曜日

荒川博!

 社のスタッフ数人と神宮のバッティングセンターへ。

 草野球をやらなくなってもう15年はたつのではないか。僕は参加していないけれど、そのうち二人の若手(といっても30代)の人間が最近、会社の野球部に入りもうすぐ公式戦だというので、話が盛り上がり急きょ実現。空振りもせず、思ったより身体は動きました。しかしピッチングマシンによる球速判定は79キロ。ちょっと遅すぎる。一緒に投げた若者(26歳)は94キロ。それほど自信があったわけではないが、悔しい。肩に針を打ってもう一回投げたい、などと思う。ちょっと病みつきになりそう。

 外苑にあるこのバッティンセンター、繁華街にあるわけではないので、閑散としているのかなと思ったら、サラリーマン、若いカップル、本格的野球少年、マイバットを持った助っ人風外国人など様々な人でにぎわっていた。


 その客の中でも際立って目立つ高齢者を発見。小学校低学年の孫と思しき少年にかなり本格的なバッティング指導。おっとこの人見たことあるぞ! 「おお! 荒川博元巨人軍コーチ!!」 王貞治の一本足打法をあみ出した男ではないか。王監督の年齢を考えると80歳近くにおなりになるのではないかと思われるが、現役コーチ時代とほとんど変わらないたたずまい。


 ナニを隠そう僕は王貞治ファン。
 王選手が756号を打ったときのラジオの実況放送の録音テープが宝物の一つ。声をかけたい、と思ったけれどご家族と一緒だったのと、熱血指導中だったので遠慮する。でも、やっぱりサイン欲しかったなあ。


 後から気がついたのだけれど、一緒に行ったスタッフのY君は早実で野球部出身。荒川さんも早実出身。彼をダシにやっぱり声をかければよかった。ああ、惜しかった。