2008年4月12日土曜日

日向あき子先生のこと

 今日は、版画家のbebeさんと日向あきこ先生の墓参。

 日向あきこ先生はわが国の女性美術評論家の草分け。詩人として創作活動を開始し、60年代後半から評論活動を始める。「ポップ文化論」「ニューエロティシズム宣言」など彼女の著作の多くは、今でも現代アートを語る上で色褪せることなく多くの人々に影響を与えている。

 日向先生と初めてお会いしたのは、1990年ごろ。人形作家・土井典さんの展覧会で紹介された。この世界にまるで無知な僕は、日向先生の存在をそれまで知らなかった。会場で立ち話をしていると、あのアラーキー氏がひょいと傍らに擦り寄ってきて「こりゃ、どーもどーも、ヒューガ先生、お元気ですか?」と平身低頭。「あら、久しぶり」と表情を変えずに応じる先生。「なんだか、すごい先生らしい」と幼稚に思う。正直を言ってしまうと、その時はアラキノブグリエ氏に遭遇したことのほうが、僕にとって実は興奮する出来事であった。

 そして「アンディ・ウォーホルとかキース・へリングは、どんなところが素晴らしいのでしょうか」などと小学生的質問にも、丁寧に答えていただいた。
「あなた、もっと勉強なさい。よかったら家にいらっしゃい」と言われ、図々しく柿生のご自宅に伺った。

 先生の2階建てのご自宅の壁という壁は書籍で埋め尽くされており、階段にも1段おきに書棚に納まりきらない本がならべられていた。床が抜けるほどの、貴重な図録や、カタログレゾネ、美術全集、時代がついてそうな洋書などを眼にして「半分でも古書店に持っていったら1件ぐらい家が建つんじゃないかなあ」と下衆に値踏する僕に、それら貴重な資料を自由に見せてくださった。

 低レベルな僕に、たぶんモノ欲しそうな顔をしていたからだと思うのだけれども、毎月何十通も先生の元に送られてくる美術展の案内状のうち、ご自分が出席できそうにない展覧会の招待状を時々「時間があったらいってきたら」と郵送してくれた。ありがたく頂戴したのだけれど、その後に「どうだった?」と聞かれるのが辛いのだ。「トテモヨカッタデス」としか言えない自分が実に恥ずかしかったから。

  これほどの未熟者ではあったけれど、初めてお会いして7~8年後、結果的に先生の最後の書下ろしとなる作品を担当させていただいた。
 打ち合わせは柿生駅近くのスポーツクラブのカフェルームか、たまに先生のご自宅。書斎にうかがった際は、2時間くらい原稿に関する説明の後「あなた、お好きなんだから飲んでいきなさい」と、にこっと笑って、冷蔵庫から冷えた缶ビールを出してくれた。一度「これは、簡単だけれど案外いけるのよ」とキッチンで、さささっと「ケンミンの焼きビーフン」を炒めてくれた。恐縮して頂いた。とても美味しかった。オノ・ヨーコやケイト・ミレットの評論をおこない、「リブ運動」の論客でもあった天才・日向先生の手料理をごちそうになるなんて、今から思うといくらなんでも恐れ多すぎ。

 ストライプハウスの塚原操さん・版画家の柳澤紀子さんらが中心になって、出版記念会が企画された。発起人は60人を超え、そうそうたる方々が名を連ねた。池田満寿夫、草間弥生、金子国義、田中一光、福田茂男、森村泰昌、横尾忠則、四谷シモン、岡本敏子、、、、これまた恐れ多いことに僕も発起人として末席を汚させて頂いた。この時の案内状は宝物。

 それから5年、2002年6月25日、先生は、知と美と思想の空間ともいえる柿生の自宅・書斎で、執筆中に旅立たれた。その2ヶ月ほど前、社に電話があり「近いうちに、あなたが言っていた○○○さんの美術館に行きましょうよ。日程を決めてね。お子さんは元気?」というやさしい言葉をかけていただいたのが最後の会話となってしまった。

 今日、ようやく初めて先生の眠る場所を訪れた。墓前で手を合わせると「あら、久しぶり」という懐かしい声が聞こえた。「ご無沙汰しております。あいかわず勉強は不足していますが、元気にやっています」と答える僕。
 先生の、返事はない。何も答えてはくれない。けれども、まだ少し桜の花が残る木々の上にひろがる空を見上げたとき、缶ビールを差し出された際のあの笑顔に、やわらかく包まれたような気がした。

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