2015年3月11日水曜日
GOMAさんの本
2013年9月1日日曜日
博多における緊張と弛緩
この時点で、なんとなく目的を達し、店を後にしても良い気分になっていた。
緊張感を持ったまま、いつもお土産を買う「岩田屋」の地下食料品売り場へ。ここで僕はいつも明太子を買う。先ほどの「黒服ラーメン」のお店と違い、ここはぼんやり冷蔵ケースを眺めていると、必ずお姉さま方が話しかけてきてくれる。
ラグビーの練習で骨折している僕の指を見て「あらー、どうしたの? わかった、だれかに噛まれたんだ」などと軽口を言ってくれたりして、ラーメン店で緊張していた僕の心は老舗デパートの食料品売り場できっちりと解放されていった。
ここで販売している、海産物は本当に手頃でおいしいものがそろっているのだ。
空港の売店では、種子島フェアが開催中。ここでも優しく素敵な姉さま方にいろいろと種子島の名産品を説明していただいた。ここでもまた、とっても美味なアジの開きと、やりイカを入手。とても心地よい気持ちで、帰途の人となったのであります。
「私たち種子島ではなくて博多の人間なの」いやいや、全然問題なしです。
2013年8月31日土曜日
介護福祉士の専門性 感情労働としての介護
今回、主に討議されていたテーマが「介護福祉士の専門性」。国家資格として制定され、25年も経過したこの資格だが、 その専門性の定義を議論しなければならないという状況の介護福祉士、なかなか複雑な資格だ。
この議論の根底には、看護師との関係性というものが存在する、様に感じた。最近の制度改正で、それまでは禁忌だった医療的行為のごく一部(痰の吸引等)が、介護福祉士にも認められるようになり、それがこの問題を浮き立たせている。 つまり「私たちは、看護師の補佐役ではない」という意識が、一部作業領域が広がることによってあらためて芽生え、そのことが自分たちの専門性とはいったい何なのであるか、という疑問につながってきたように思えるのだ。
僕が参加した分科会で一人の発言者が、「介護は看護から生まれた領域ではない。むしろ、全人間的な視点を持つ介護から、看護が派生的に生まれたのだ」と声高に述べていた。「なんだかフェミニズム論みたいだな」と思った。
看護師やコ・メディカルと言われる人たちが、自らの専門領域について議論することはあっても、その専門性とは何か(アイデンティティといってよいかもしれない)、について論じあうことはないだろう。 それは、その領域が科学的な根拠によってきちんと定義されているからである。
専門性イコール科学的な裏付け、と捉えた時、介護福祉士の専門性はとても脆弱なものになる。どうしてだろう。
医療的ジャンルと明確に異なる点は、介護ははっきりと「感情労働」といえるからではないだろうか。「感情労働としての介護」という視点でその科学性を考えていくと、見えてくるものがあるかもしれない。
心理学とは別のアプローチで「感情の科学」を論じていけば、介護の専門性が見えてくるのではないか。
介護版「感情の科学」の研究がこの問題を解決する近道かもしれない。
「感情労働としての介護」について考えてみよう、と思った二日間だった。
2013年8月16日金曜日
働くということ
「この職業を選んだ理由は?」「一日の時間の流れは?」「この職業をするにあたって必要な資格は」「仕事をして喜びを感じる時は?」「辛いと思うのはどんな時?」等など、次々と質問をされる。
伯父さん、いいかっこうしなければ、高校生に夢を与えなければ…などと思いつつ、一言ひとこと言葉を選びながら、答えていった。久々に、シンプルに自分を振り返る、いい機会にもなった。
そして、最後の質問…。ドキッとした。「あなたにとって"働く"ってどういうことですか」
それまで、流ちょうに答えていたつもりなのだけれど、一瞬言葉に詰まってしまった。
働くってどういうことだろう。
とりあえず「働くって、自分は社会の中で生きているのだ、一人きりでは生きられないのだ、ということを確認する作業かな」と答えた。
「たとえば、作家の人が一人で原稿を書き終えたとしても、それだけでは働いたことにならない、それを出版社の担当者に渡して、印刷屋さんが印刷して、また点検して、活字になって製本されて、それを本屋さんが読者へつないでくれる。そういった仕組みの中で行動するということが働くということなんじゃないかな」
「農業で言えば、自給自足で自分が食べる分だけの作物を作っていたら、それは労働とは言えないよね、その作物を食べてくれる人に渡して、その対価を得て初めて働いたということになると思うんだよね」などと答えた。
姪っ子は僕の一言一言に対して、しっかりうなづきながらメモを取っていた。
答えながら、働くってそういうことか、と自問自答していた。お前はいつもそんなことを意識して仕事をしているかと心の中でつぶやいた。
30年以上勤め人をしていて「働くということの意味」について初めてきちんと考えてみようと思った、貴重なひと時だった。
2011年3月27日日曜日
そのとき
14時46分。
3月11日、僕はオフィス近くのビルの4階にある貸し会議室にいた。17時まで行われる会議だったが、僕は午前中だけ参加の予定だった。会議の流れで、午後3時まで出席しようと予定を変更した。
そろそろ会議を抜けるころだ、と思った矢先の午後2時46分。会議室の床が大きくスライドし始めた。
地震だ! と思いつつも縦揺れではないから大したことない、と一瞬思った。しかし、横揺れの幅が初めて体験する凄まじいものだった。
ミシミシと建物のあちこちから、「破壊」を想像させる音が聞こえ始めた。会議に出席している人間は、12~3人。長机を両手で押さえる者、机の下に隠れる者、呆然とする者、窓から外を眺める者、、、その窓ガラスにピシッピシッと音をたててヒビが入った。
1分以上経った、まだ揺れは続いている、エネルギーを増しながら。
生まれて初めて経験する種類の恐怖。会議室の壁の一部がひび割れ、コンクリートの破片が床に落ちてくる。ビルが倒壊するかもしれない、と思った。
そのとき、ふいに自宅の本棚がバタバタと倒れる映像が頭に浮かんだ。液晶テレビもバタンと音を立てて倒れ、画面が割れる。購入したばかりなのに。妻はパニックになっているに違いない。急激にに自宅が心配になった。妻がいるはずの自宅に電話を入れた。まだ揺れは続いている。電話は通じたが、誰も出ない。
妻のケイタイにも電話したが、話中の状態。地震発生から3分ほど経過しただろうか、揺れはようやく収まった。
会議の参加者も、我に返り自宅に電話したり、ワンセグでテレビを見たりし始めた。震源地は宮城県沖! と誰かがさけんでいる。震度7強!! どんな状態なのか。
社内の会議であったので、それぞれが所属する部署に電話で状況確認を始めだした。当然会議はこの時点で終了ということになった。
外に出た。あちらこちらのビルから人が出ていて車道も通行人でいっぱいになっていた。
多くの若者がケイタイで動画を取っている。いや若者だけではない、おじさんも。ケイタイを向けている方向を見ると、新宿の高層ホテルがゆらゆらと揺れていた。1~2分おきに余震が来る。アスファルトの地面も揺れる。一瞬自分も動画を撮ろうかな、という思いが頭を掠めるが、こんなことでバッテリーを消費してる場合じゃないと自省する。
事務所の入っているビルの前に、僕の部署のスタッフが集まっていた。会社からの指示で、とりあえず事務所の近くの広域避難所に指定されている明治神宮に皆で向かうことになった。
明治神宮・北参道に行くと、多くの企業の人間が避難してきていた。大手企業の従業員が多い。どこで大手企業と判断したかというとヘルメットをかぶっているかそうでないか。ヘルメット組は大手に違いない。ここまで来る途中、ビルの上から看板や、ガラスの破片や、窓そのものが落ちてくるのではないか、と、そんな恐怖を感じた。ヘルメットがとてもうらやましかった。
「生徒全員の安全が確認されました。バス・自転車・徒歩通学の者のみ帰宅させることにします。その他の生徒は交通機関が復旧しだい帰宅させます」とのことだった。ウチの息子は電車通学組みなので学校にとりあえず残ることになるだろう。学校からの緊急メールだけはこの後も定期的にきちんと届いた。何か別ルートでもあるのか。妻との連絡はまだ取れていない。ツイッターは、リアルタイムで機能している。妻もアカウント持っていればダイレクトメールが使えたのに、と思ったが夫婦でフォローしあうのも、なんだかなー、とも思った。
明治神宮に避難した多くの者は宝物殿前の芝生広場に誘導されたらしいが、少し出遅れた僕は本殿のほうに向かってしまった。本殿には避難者と思える人は一人もいなかった。
覚悟を決めた。歩いて帰ろう。とりあえず、家の中がどうなっているのかを確認したかった。会社から自宅へのルートは何度か車で走っているのでおおよそ頭の中に入っている。代々木の会社から川崎・元住吉の家まで、18キロから20キロくらい、3~4時間で帰れるだろう。
明治通りの歩道は、人であふれかえっていた。一部車道にはみ出してしまっている。早足で歩き、18時30分に渋谷駅を通過した。山手線なら5分のところだ。
なつかしい、ラ・ボエムがある!何度この店で夜更かししただろう。昔と変わらぬたたずまいがうれしい。ブンシュンのアズマさんによくおごってもらったなあ。午前様になって、この店のチーズケーキを嫁さんに買って帰ったなあ、などと考える。メールで妻はまだ、タクシー乗り場に並んでいると連絡してくる。タクシーは30分に1台くらいの割合でしかやってこないと言う。
自由通りを越え八雲三丁目の交差点を左折、目黒通りを離れ自由が丘へ向かう。
ゆっくりメールでも打とう、とエントランスに入ると数十人の行列ができている。なんと、公衆電話にならぶ行列だった。主婦が多い。買い物帰りなのだろう。ケイタイはほとんどつながらない状態が続いているが、公衆電話は大丈夫と道行く人たちが話していたのを思い出す。
コンビニももちろん真っ暗だ。やはり、大変なことが起きている、と再度納得した。
ガスは無事、やかんで湯を沸かし買い置きのカップ麵をすすって落ち着く。ろうそくの明かりの中でラジオを聴きながら、妻の帰りを待つ。
23時15分。
震災の恐ろしさを実感するのは翌朝以降のことだった。
2011年3月8日火曜日
経堂に名店あり
| 駅前の路地にひっそりとたたずむ |
| 常連さん・みんな笑顔 |
| この日は装丁家の代田奨さんとの打ち合わせで。僕以上のこの店のファン、遠く本郷の事務所からやってくるほど |
| ふきのとうの天ぷら なんと380円 |
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| レバー苦手な僕も、唯一この店のレバ刺しは食べられるのだ(運が良いとメニューに加えられる) |
| 僕が東京の居酒屋で一番美味しいと思っている「やきそば」、帰宅してからチンして食べてもひたすら美味かった。 |
2011年3月4日金曜日
博多新駅で、なぜ2番じゃいけないのか理解する
3月12日の博多=鹿児島間、九州新幹線・完全開通を1週間あまり後に控え、長期間続いていた博多駅の改修工事が終了。ぴかぴかの姿を現していた。
屋上も面白いよ、と聞きつけ、昼飯どきに行ってみた。そこには、何が奉ってあるかわからないが「鉄道神社」なるものが存在し、参拝客でごった返していた。みなさん、小さな祠の前の賽銭箱に小銭を投げ入れ、さすが山笠博多っ子、きちんと二礼二拍手一礼している。ちょっとシュールな光景ではあった。何の神様ですかと問えば一様に、よくわからんと笑顔で首をひねる。
ひねくれゆうちゃんの赤いかさ(5)
「うれしいな、すてきだな」
2011年3月2日水曜日
焼酎とストローと、超能力
「炉庵」は、料理が美味しくて、そしてお店全体のバリアフリー環境が整っている。だから、身体的障害を持たない人間も本当に落ち着ける空間になっているのだ。(障害者用トイレに入ると広々と気持ちいい、と感じるあれに近いと僕は思う)
2011年2月27日日曜日
雲の上で想ったこと
運よく窓側の席が取れた。シートベル着用のサインが消えた頃から、ボーっと窓の外を眺めていた。あきない。雲の上の風景っていつでも人の心を平穏にやさしくする。地上が厚い雲に覆われているときや、雨降りでないと雲の上の風景は見られない。快晴ではいけない。皮肉といえば皮肉。だからよけい得した気分になるのか。
母は、12年前に亡くなった。母と父がこの天上にいるのだ、と思えるようになったとき、機内から見る雲の上のこの光景もまた違ったものに思えてくるのだろうか。
2011年2月23日水曜日
「すぐに忘れられちゃうんですよねえ」
職場における仕事の話だ。彼女は、僕より多分20歳以上年下の同業者。僕と同世代の上司に対する、まあよくある愚痴。
いろいろと報告をして”考えておこう”と返事をもらっても、一向に指示が出てこない、ということらしい。
僕は、「そうだねえ、色々な仕事抱えているだろうからねえ。俺も、なんでも忘れちゃう。だから、なるべく覚えているうちに、すぐに動くようにしているのだけれど。放っておくと、自分たちの時間の流れだと、すぐに1ヵ月2ヵ月たっちゃうからね」とこたえた。
異論はあった。-そんなの昔からいっしょ。だから、何度もしつこくこたえを求め続ける。そして、ダメとはっきりいわれなければ、もう動いてしまう。そうしてはじめて、上司は本気になるのだから・・・-たぶん、一言では、上手く伝わらないと思ったので「まあ、自分のことも含めてとにかくすぐに動くしかないね」とだけ言った。
「忘れられちゃう」ほうが仕事はしやすいときもあるんだよ。
とにかく、フットワークだ。そして「打つべし、打つべし、打つべし」と帰りの電車の中で彼女に言いたくてもなぜか言えなかったことを心の中で反芻していたら、なぜか僕自身、元気が出てきた。うん、明日のために!
ああ、これも、忘れちゃうかなあ。
ひねくれゆうちゃんの赤いかさ 4
「おみやげといえばね、ゆうちゃんに会いたくなったのは、そのおみやげのせいなんだよ」とおばあちゃん。
「え。なになに?」
ゆうちゃんはドキドキして、おもわず電話に思いっきりくちびるをくっつけてさけんでしまいました。
「ゆうちゃん、そんなに大きな声をだしたらみみがこわれてしまうよ。あのね、とってもいいものをデパートで見つけたんだよ。それを見つけたら、つい買ってしまってねえ。ゆうちゃんがとてもよろこびそうなものだったから」
「ねぇ、ねぇ、ねぇ、おばあちゃん。なーに、それ、はやく言ってよ」
ゆうちゃんのくちびるはますます電話にくっついていきます。
「あのね、とってもかわいい赤いかさなんだよ。ピーマンとニンジンの絵がかいてあるの。おばあちゃんはそれをゆうちゃんにプレゼントしたくてね」
おばあちゃんは、ゆうちゃんが電話に口をくっつけて大声を出すのをけいかいして、受話器からみみをとおざけて話しました。
ぎゃくに、ゆうちゃんはうれしさのあまり、何もしゃべることができなくなってしまいました。
「ねえ、ゆうちゃん。きこえてる?どうしたの?」
おばあちゃんは、心配になってたずねました。
「バンザーイ!!!」
ゆうちゃんはありったけの大声を出してさけびました。
おかげでおばあちゃんの右耳は、そのつぎの日までよく聞こえないほどでした。
(つづく )
2011年2月20日日曜日
佐野眞一さんの言葉と「団塊世代」の可能性
「ノンフィクションを一言で定義すれば、つい本当だと思ってしまう、テレビやインターネットで日々押し寄せてくる情報について、事実を丹念に掘り起こし、実は何も知らなかったことを読者に気づかせる文芸」という。けだし正論。
「森達也は、あなたは本当にオウムを知っているのですか、もっとあからさまに言えば、死刑判決が出た麻原を”吊るして”終わりにしてしまって本当にいいんですか、と執拗にと問いかけている」と。
「麻原がメロン好きだいうことまで報じたメディアが、今ではオウムに対し完全に口を閉ざしているのはおかしくないか」と批判。
そして、「オウムに対して騒ぐだけ騒いで、深刻に考えざるを得ない局面になるとスルーする。連合赤軍に関し見てみぬふりをしてきた同世代の私にはこうした社会風土を作ることに加担したのではないか、という思いがある。傷口を開けられるようで、読むのが辛かった」と語る。
団塊の世代がもう一度社会のムーヴメントをつくりうるとすれば、こういう反省から立った発想を持つことではないか、とその世代をちょっぴり批判してしまうことがある僕が、まじめに考えた。
加藤仁さんに吹っかけたら、どういっただろう。ああ、酒飲みながら語り合いたい。
ひねくれゆうちゃんの赤いかさ 3
そんなゆうちゃんに、6月のある日、とびきりのニュースがとびこんできました。
プルルルル・・・・・・・・プルルルル・・・・・・・・
ゆうちゃんが一人おるすばんをしていると、いきなり電話がなりだしました。電話はいつでも、とつぜんにかかってくるものなのですが、ゆうちゃんはいっしゅん、どきんとして受話器に手をかけました。
「もしもし、おばあちゃんだよ」
山形のおばあちゃんからの電話でした。
「なぁんだ、おばあちゃんか」
ゆうちゃんは、ほっとしてそう言いました。
「おばあちゃんか、だなんて、ゆうちゃんおばあちゃんからの電話でがっかりかい?」
「ううん、だぁいすきだよ。ねぇねぇ、おばあちゃん、元気?」
ゆうちゃんは山形のおばあちゃんのことが本当に大好きなのです。
とってもやさしくて、いつも東京のゆうちゃんの家にくるときには、とびっきりのプレゼントを持ってきてくれます。
「おばあちゃんは元気、元気。そろそろ、ゆうちゃんのお顔が見たくなってね。東京に行こうと思ってるの」
おばあちゃんは、いつものやさしい声でそういいました。
ゆうちゃんは受話器のすぐ向こう側におばあちゃんのにこにことした笑顔が見えるような気がしました。
「わぁーい。ゆうこ、うれしいなあ。ねえねえ、おばあちゃん。この前もってきてくれたサクランボ、とてもおいしかったよ」
「なんだか、おみやげのさいそくをされているみたいだねえ」
おばあちゃんは、きげんのよいときの声で話します。 (つづく)
2011年2月19日土曜日
加藤登紀子さんとエディット=ピアフな夜
ピザは3種類のチーズがのったシンプルなもの。ブルーチーズがポイント、美味しかった。
モッツァレラとブロッコリーの生パスタトマトソース 3種チーズのピッツァ
夜は、六本木「スイートベイジル」で加藤登紀子さんのライブ。バックにジャズピアニストの島健という豪華な組み合わせ。二組のご夫婦と会場で待ち合わせ。 僕だけは一人。
普段の登紀子さんのコンサートとちょっと味付けが違う、シャンソンを中心にそのときに登紀子さんが「歌いたいものをきっぱり歌う」ライブ。今夜は、彼女が愛するエディット=ピアフの物語が中心に添えられていた。
エディット=ピアフの作品「愛の讃歌」「バラ色の人生」、そして、登紀子さんがピアフに捧げたオリジナル「名前も知らないあの人へ」「ペール・ラシェーズ」。
「名前も知らないあの人へ」はピアフが18歳のときに亡くした娘のことを思う夜のことを歌った。「ペール・ラシェーズ」はピアフと2歳で死んでしまった娘のマルセルが眠っているパリ郊外の墓地、パリ・コミューンに蜂起した市民兵士たちが多く殺された場所でもある。
素晴らしい4曲だった。人生を感じた。生きる力を感じた。命を感じた。鳥肌がたちどおし、圧倒された2時間だった。
よし、ピザとか食ってるだけでなく、今度は妻と一緒にコンサートへ行こう、と一瞬思う。
2011年2月15日火曜日
ウソつかない道具はなーに
そして、カウンターの奥には、二人の子どもが寄り添って仲良く遊んでいる。マスターの娘と息子らしい.
小学校2年生のお姉ちゃんと4歳の弟だという。二人ともとても人懐っこくて可愛い。都会の店ではちょっと珍しい光景。
なんか、離島の居酒屋に行ったような気分になった。沖縄の小さな焼き鳥屋さんなどには、店の中で小さな子どもが普通に遊んでいることが多い。家族で訪れたりすると、子ども同士すぐに仲良くなり、親たちだけで食事ができてしまう。
「弁慶」のふたりの子どもも同じ、お父さんとおばあちゃんに注意されながらも、じょじょに二人は我々の方にちょっかいを出しに来る。
お姉ちゃんが、僕たちにクイズを出してくれるという。弟くんはその答えを言いたくてしょうがなく、お姉ちゃんに許しを乞うている。お姉ちゃんは、こっちのおじさん(S君)には言ってもいいけど、あっちのおじさんは絶対ダメ、などといっている。差別だ。弟くんは、僕のほうをいたずらな目で見ながら、嬉しそうにS君に耳打ちをしている。
「わかったら手を上げて答えてください!」とお姉ちゃん。
「ハーイ」僕。
クイズの内容。
1減っても減ってもなくならないもの、なーんだ。
2固くて食べられない果物、なーんだ。
3母には会えないけどママには2回会える、なーんだ。
4ウソをつかないお母さんがよく使う道具、なーんだ。
5すぐ怒る虫、なーんだ。
2以外、正解した。
皆様も一緒にお考えください。
(答えは明日以降)
7時ごろ仕事帰りと思しき、やさしそうなお母さんが店に迎えに来て、二人はとても幸せそうな表情で僕らとハイタッチをして帰っていった。
僕らには誰も迎えは来なかったけれど、とてもあたたかな気持ちになって僕らも店を出て大宮駅に向かった。
2011年2月14日月曜日
キックキックトントン
「猫のひたい」の我が家のベランダもこんな感じ 駐車場もすっかり雪国
僕は戌年なので、雪が降ってくると心がときめく。今夜のような、予期せぬ雪は尻尾があったらちぎれるくらい振ってしまうだろう。
雪はいい。普段でこぼこした場所をきちんと平らにしてくれる。気持ちいい。大好きな、宮沢賢治の『雪渡り」の一説。
「・・・・・四郎とかん子とは小さな雪沓をはいてキツクキツクキツク、野原に出ました。」
「こんな面白い日が、またとあるでせうか。いつもは歩けない黍の畑の中でも、すすきで一杯だった野原の上でも、すきな方へどこ迄も行けるのです。平らなことはまるで一枚の板の上のやうです。そしてそれがたくさんの小さな小さな鏡のやうにきらきらいきらきら光るのです。」
森に入っていった四郎とかん子は。白狐に出会い仲良くなり一緒に踊りだします。
「キツク、キツク、トントン。キツク、キツク、トントン。」
この賢治の擬音、たまらない。
どんな町中にいても、雪が一面を白く覆いつくすとホント、狐が出てもおかしくないような気がするのだ。
けれど今日は、電車を降りたら狐ではなく、尊敬する映画作家・想田和弘監督の『選挙』に登場する山さん見たいな人に出会ってこれはこれでシュール。新風に吹かれて風邪ひくなよ。
2011年2月13日日曜日
ブログ復活(しようかな)
などと思いつつ机を整理していたら、まだ息子が生まれる前に書いた子ども向けの創作話の原稿が出てきた。
未だ見ぬ「自分の子どもに読んでもらおうと、書いたのだが、なぜか女の子向け。僕には、女の子がいないし、息子も中学2年になろうとしており、ラグビー部で鍛えられつつあり首は太く胸板も厚くなり始め、ちょっと恐怖を感じるときもある。読んでもらう機会を逸してしまった。恥ずかしながら、とここで少しずつ発表(不連続連載)。
ひねくれゆうちゃんの赤いかさ 1
ひねくれゆうちゃんは、、本当はゆうこという名前なのですが、なぜそうよばれているかというと、まだ5さいのくせにピーマンとニンジンが大好きだからです。
ね、とってもひねくれでしょ。
ゆうちゃんは雨ふりも大好きです。 雨ふりがつづくとようちえんのお友だちはみんな、
「雨ふりはいやねぇ」
とまるでお母さんのような顔をして言います。
「そんなことないよ。雨ふりって楽しいよ。雨つぶがほっぺたにぽつんとあたると気持ちいいよ。」
お友だちはまたまたいいかえします。
けれどゆうちゃんも、またまたまたいいかえします。
もし、園長先生も雨ふりが好きだったら、うんどう会や遠足はちゅうしにならないはずです。中止になるのは雨のせいではなく、それをきらいな園長先生のせいなのです。
ひねくれゆうちゃんはいつもそう思うのです。 (つづく)
2010年1月11日月曜日
ユニクロ兄さん!
息子、なんとなく嬉しそう。
「友達にも、同じの着ている子が何人かいるよ」とのこと。ユニクロ、儲かるわけだ。
その後、近所の商店街を歩いていると、、これまた息子がダウンの下に来ているものと全く同じユニクロ製のセーターを着ているおじさん発見。「お、今度はユニクロ父さんじゃないか。お前、ダウン脱いで、ユニクロ父さん! 会いたかったよお! なんて声かけてみたら」と僕。
息子、大ウケ。
僕の子供の頃は、母親にバーゲンで買ってもらった、つまり明らかにお得ですよ、という洋服を着せられ、それと同じものを着た友達に出会ってしまったら、お互い赤面、「これもう学校に来ていくのいやだよ」なんて文句を言ったものだが。
たぶん、胸に"UNIQLO"なんてロゴが入っていたらだめなんだろうな。ブランド品を持つのとは、正反対。
話題の海外の低価格ブランド、H&M、ZARA、TOPSHOP、あと、フォーエバー21か、そういうのともなんかちょっと違う。
ノンブランドというブランドを生活に根付かした、というか標準化に成功したというか...。新商品を次々と出し続けることも大事なんでしょうね。結局、企画力の勝負か。
2009年12月27日日曜日
賞状とハート
「何のことだ」「あれだよ、ボクの賞状、昨日もらってきたやつ」
「なにソレ、そんなこと昨日なにも言ってなかったじゃないか」妻と僕と同時にこたえる。
夏休みの研究発表が評価されたとのことで、市の教育委員会のナントカカントカという部門で表彰されたという。その賞状を冬休み前の朝会で校長先生から手渡されたとのこと。
「お前、そういうことなんで早く言わないんだ、それで賞状まで無くなっちゃたって、いったい何やってんの?」
「だって、帰ってきたとき誰もいなかったし、あとはそのこと忘れちゃって、、、ああ、どこにやっちゃったんだろ?」頭をかかえる愚息。
立派な賞状をもらえてとても嬉しかったという。でも、ソレをどこかに置き忘れてしまったらしい。
「ほんと、お前はアホだなあ」と僕。うなだれる愚息。
本来なら、"よかったねえ" "うん、頑張ってよかった"みたいな、にこやかな会話が飛び交うあたたかなクリスマスの夕餉、という時間を持てたはずなのに、結局、逆に叱られている愚息。怒っているこちらも、とてもむなしい。
そんな大事なもの普通忘れるかねえ、と思ってみて我が身を振り返れば、思い返されること、それは小学一年生の登校初日の話。
大きなランドセルに真新しい国語算数理科社会、すべての科目の教科書・ノートを詰め込んで、母に「がんばってね」かなんか言われつつ学校へ。
午後、元気よく帰宅。母に「どうだった学校? 楽しかった?」と聞かれ、ひとこと「普通」とこたえる僕(わが愚息と一緒)。
そして、ランドセルの中を見て母親がびっくり。「あらやだ、中身がからっぽじゃない」
往きは中身ぎっしり、帰りはからっぽのランドセルを背負って帰ってきた息子に「あんた、教科書とか筆箱は?」と問いただす。息子は、ぼんやり「あ、忘れた」 ...
それを聞くや否やランドセルを手に、全速力で学校へ向かって走り出していった母親。放課後の1年2組の教室。ぽつりと担任の先生が教壇に座っていた。
「ああ、〇〇君のお母さん。いらっしゃると思っていましたよ。〇〇君、教科書全部机の中に入れたまま帰っちゃって、私も長い間教師やってますけれど、こんなの初めて。うふふ」
教科書類が再び詰め込まれたピカピカのランドセルをぶら下げて帰ってきた母に、当然こっぴどく叱られた。
「顔から火が出たわよ。お母さん、今までこれほど恥ずかしい思いをしたことなかったんだから」その後、僕が忘れ物をするたびに、母はこの逸話を披露した。
この親にして、この子ありなのだ。納得するしかない。
下駄箱のところに置き忘れたのかも知れない、と半泣きの息子。冬休み中ではあったけれど、運よく当直の先生に連絡がついて、さっそく母子で学校へ。
賞状は、愚息の机の中に保管されておりました。
二日がかりで、めでたく我が家に到着。よかった、よかった。
賞状を手にして、息子がイの一番に言ったこと。「ねえお父さん、ここよく見て」と、文章を囲んでいる飾り罫、不死鳥みたいな鳥の尾の模様の部分を示す。
「ここにハートの文字が隠されているんだよ」
よく見ると確かに、絵の中に肉眼では分からぬほどの大きさで、「ハート」と記されている。賞状メーカーの遊び心か。
「よく見つけたな」
「〇〇君のお兄ちゃんが知ってたんだ。」
「これはすごいぞ、息子。大発見なのだ」
「ね、すごいでしょ。ああ賞状見つかってよかった」
バカボンとバカボンのパパの会話みたいになってしまっていたのだが、これでいいのだ。
2009年12月24日木曜日
レピドールのクリスマスケーキ
クリスマスイブ。
ケーキは毎年・田園調布「レピドール」 の17センチのデコレーション。
家族全員ここのクリスマスケーキ、大好き。
「レピドール」は2階に喫茶ルームも併設、絵本作家の葉祥明さんがよく打ち合わせ場所として指定される。
午後の喫茶ルームは、近隣のおば様方で溢れかえっていて、女性客度97パーセント。僕などは異分子である。
こういう場所は慣れていないので、背中がむずむずしてしまう。紅茶なぞを啜りながら葉さんを待つ間、資料に目を通してもなかなか集中できず、ついきょろきょろと周りを盗み見みして、怪し度を高めたりしていた。
赤羽の居酒屋なら大丈夫なのだけれど。
もう7~8年になるだろうか。ちょうどクリスマス前の時期、レジのところでケーキを予約する人が後を絶たない状況を目にした。会社帰りの男性も多く、今年もお願いね、という感じで名前・電話番号などを告げていた。
それでは、ということで僕もなんとなく一番小さいのを予約したのが最初。
クリスマスイブの夜に、お店でケーキを受け取りぶら下げて家路に着くのは、少し照れくさくもあり、また「父ちゃん」という感じで、嬉しくもある。
2009年12月21日月曜日
加藤仁さんが天国へいってしまった
「僕がモノ書いているうちはさあ、七十になっても八十になっても、こうやって月一回ぐらいは一緒に飲もうよ、つきあえよ」と言ってくれてた仁さんが。
早すぎるよ、最後に飲んだの8月だったじゃないですか。
次の作品を楽しみにしていたのに。恩返ししなければならないことがたくさんあったのに。早すぎますよ。
「オイ、君はそんな顔するんじゃない」といういつもの言葉が聞こえてきた。
「そんな顔になります。加藤さん、やっぱり早すぎる」
葬儀の帰り、車窓からこの冬一番の美しい富士山の夕景を見る。
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